甘美で残酷な抱擁
沙絵は走って走って走り続けた。 立ち止まってしまったら押さえ込んでいたものが溢れ出してしまいそうで、必死に走っていた。 どのくらい走ったのだろう。 普段あまり運動などしない沙絵の身体に、急激な運動は大きな負担をかけた。 走り続けようとする気持ちとは反対に身体はついに限界点に達した。 沙絵は地面にヘナヘナと座り込んでしまった。 荒い呼吸を落ち着けて、気づけば目の前には見慣れない風景が広がっていた。 街の明かりは遠く、簡素な住宅街のようだ。 それもまだ夕方のせいか、明かりのついている家は少ない。 暗い家が立ち並ぶ中、突如沙絵を襲ったのは、寂しさと不安、そして喪失感だった。 いつしか沙絵の中で大きくなっていた存在。 それを、今日、失った。 正確には、自分から切り離したのだ。 「もう会いたくない」と。 けれどそうする以外に沙絵には方法が浮かばなかった。 誰もが傷つかない方法なんてありはしないのだから――――― 考え抜いた末の最良の選択だった。 たとえ大きな傷跡が残ろうともそれでいい、と自分で決めたのだ。 晃の幸せを一番に考えたとき、自分にできることは離れることしかないとそう判断した。 それでも、抑えきれない感情。 沙絵の中の欲望が膨れ上がる。 これで本当によかったの?と心のどこかで声がする。 押し寄せる後悔の念。 だって他に方法が浮かばなかったの・・・・・。 知らず沙絵の瞳からは涙が溢れ出していた。 とぐろを巻いて溢れ出す激情。 それは沙絵の決意を覆い返すかのような勢いを持っていた。 少しでもこのバランスが崩れたら、今にも晃の元へ走り出してしまいそうなほどだ。 こんなにも激しい感情が自分の中にあったなんて、と驚くほどだった。 触れてしまった優しさ、生まれてしまった熱い想い。 その全てが沙絵の中で湧き上がってくる。 「ふっ・・・・うう・・・」 涙は枯れることを知らず、次から次へと溢れてくる。 どれだけ涙を流したらこの想いをしまえるのだろう? この胸に滾る感情はいつか思い出に変わるのだろうか? そんなこと、本当にできるのだろうか・・・? 「沙絵っ!!」 名前を呼ばれながら肩をグイッと掴まれた。 振り向かされたその先に見えたのは、額にうっすら汗を浮かばせながら肩で息をしている圭介だった。 「せん・・せい・・・。なんで、ここに・・・・?」 「お前が走ってるの見かけて、何かあったんじゃないかって・・・」 圭介は沙絵が地面に座り込んだまま泣いていたのだと理解すると、そっと沙絵をその腕の中に迎えた。 腕の中の沙絵は一瞬ビクッと身体を震わせたが、特に抵抗する様子は見られなかった。 それを確認すると、圭介はさらに強く沙絵を包み込んだ。 愛おしむようにそっと、でも離さないようにしっかりと。 強く抱きしめられて、暖かい人の体温に包まれて、気づいたら沙絵はしがみ付いていた。 もう、1人では耐えられないところまできていた。 何かに寄りかからないと立つこともできない。 それがたとえ残酷なことだとしても、沙絵にはもう何も考えられなかった。 圭介に支えられながらやっと立ち上がることができた沙絵。 その弱々しい姿に圭介の中で何かがはじけた。 「沙絵、何があったか無理には聞かない。でも俺がいるから安心しろ。俺に寄りかかればいい。俺はいつだって沙絵の味方だから」 圭介の言葉は沙絵の中で甘く響いた。 世界中で1人きりになってしまったような孤独感に苛まれていた心に圭介の言葉は深く入り込んだ。 絶対的な味方がいることの安心感。 それは今沙絵が最も欲していたものだった。 「先生・・・・先生・・・・・」 沙絵は何度も圭介を呼んだ。 それに応えるように圭介は沙絵を腕の中に囲いながら、繰り返し頭を撫でていた。 「大丈夫だよ、沙絵。大丈夫だから・・・」 目の前で泣き崩れる愛しい人。 理由は分からないし、無理に聞くつもりもない。 でもできることなら大切な人にはずっと笑っていてほしいから。 そのためならどんなことでもするから・・・圭介はそんな思いを抱いて沙絵を包み込んでいた。 どのくらいの時間がたっただろう。 少し冷静になってきた沙絵はどうしたものか考え込んでいた。 どうしよう・・・混乱してたとはいえ、先生に抱きついちゃってる。 えーっと・・・・・・。 と、とりあえず顔上げても平気かな・・・? 圭介の胸からそーっと顔を上げる。 すると沙絵が動いたことに気づいた圭介の、下りてきた視線とぶつかった。 「お、やーっと泣き止んだか」 圭介は沙絵の身体を離して、沙絵が泣き止んでいることを確認すると静かに微笑んだ。 「それじゃ、お姫様も泣き止んだことだし、お送りしましょうかね」 「お、お姫様って・・・」 「沙絵は俺にとってお姫様みたいなもんだからな」 「なんですか、それ。ふふっ」 圭介は努めて冷静を装った。 今の弱っている沙絵なら、こちらに振り向かせることができるかもしれない、そんな想いも確かに過ぎった。 しかし、沙絵には正々堂々と向き合いたかった。 弱みに付け込んで手に入れられたとしても、沙絵にとってそれはホンモノではないから。 圭介は沙絵の本当の気持ちを手に入れたかった。 だから敢えて、茶化すような口調で接したのだった。 沙絵が笑っていてくれさえすればいい。 今沙絵に必要なのはきっと暖かく迎え入れてくれる人だろうから、俺は喜んでその甘い痛みを受けよう。 たとえそれが誰かを想って流す涙だとしても・・・。 |