違和感の正体




春の柔らかな日差しの中、沙絵は大学生ということで真面目に授業に出席していた。
・・・出席はしていた。
心ここにあらず、といった様子ではあるが。


結局昨日は晃に電話をかけることもできず、公園で別れたきりだった。

なぜ晃の様子が変だったのか、なぜ突然帰ってしまったのか・・・分からないことだらけの沙絵。
そんな状態で授業を真面目に受けろという方が無理だった。




窓の外の桜を眺めながら昨日のことを考えていると、気がつけば授業も終わっていた。



・・・一体何しに学校来たんだか。
今日は早く帰って休もう。



いつもなら月曜日は授業も早く終わるので大抵音楽教室へと赴いていた。
掘り出し物のCDを見つけるためだったり、先生のフルートを聞くためだったり、教室の店長と世間話をするためだったり・・・。
つまりは特に用事がなくても“何となく”訪れていたのだ。


しかしさすがに今日はどこに行く気もせず、まっすぐ帰ろうという気になった。






「沙絵ちゃん!」



教室を出て建物の出入り口に向かっていると、突然誰かに名前を呼ばれた。
声のした方を向くと、そこには奈緒がいた。


「よかった、文学部って言ってたからこの辺にいれば会えるかなと思って」
「奈緒ちゃん・・・。えっと、あたしに何か用事?」

ほぼ初対面に近い沙絵と奈緒。
そんな自分を探していたのだろうから、何か特別な用事でも・・・と思い沙絵はそう問いかけた。


「うん・・別に用事ってほどじゃないんだけど。・・・ほら、よかったらフルートと合わせてみたいなぁと思って」
「あ〜・・・ごめんね、あたし今日フルート持ってなくて」
「・・あ、そっか。そうだよね、突然持ってたりしないよね」


あはは、と渇いた笑いを浮かべて奈緒は答えた。
そして次に待ち構えているだろう沈黙を追いやろうとするかのごとく、奈緒は続けて話し出した。



「・・・昨日、言ってくれたじゃない?『その人は幸せ者だね』って。きっとそんなことないんだけど、それでもそう言ってくれたのが嬉しくて。だから・・お礼を言いたかったの」


奈緒の言いたいことがイマイチ掴めず、返す言葉を見つけられない沙絵。
そんな様子を見かねて、奈緒がさらに付け加えた。


「あたしすごく大切な人がいるの。ちょっといろいろあって、今は疎遠になっているんだけど・・・あたしと彼を繋ぐものはピアノだけだから・・・・だからピアノ続けてるようなものなんだ」


大切な人と疎遠になる―――――


その言葉を聞いて沙絵は圭介がオーストリアに行ったときのことを思い出した。
それはきっと沙絵があの時感じた寂しさの何倍もの大きさなのだろうと想像した。



「あたしね、彼を試したの。・・・嘘をついた。そのせいで・・・・・」

奈緒は心の底から悔やんでいるかのように悲しそうな表情を浮かべていた。



その続きが“言葉”になることはなかった。
言葉になれなかった。


どれだけ苦しかったことだろう。
そこまで大切な人を失ってしまうというのは――――――

それは沙絵には計り知れないものだった。




「ねぇ・・・会いに、行ってみたら?」


沙絵の言葉に奈緒は目を丸くした。
そしてすぐに俯いてしまった。


「でも・・きっと彼は許してくれない。全部あたしが悪いんだし・・・・」

「それでも、例え許してくれなくても、奈緒ちゃんの想い、伝えなくていいの?」



許してもらうためではなく、自分の素直な気持ちを伝えるため。
それは単純なようで、案外難しいことかもしれない。
誰だって自分の気持ちをさらけ出すのは勇気がいることだから。


それでも伝えなくては始まらないことだってある。
伝えた先にもしかしたら、大切な笑顔が待っているかもしれないのだし。



そんな想いを込めて、沙絵は奈緒に会いに行くことを提案する。
それは不安に震える自分に向けての言葉であるかのように。



そう沙絵も怖かったのだ。
本当なら昨日の夜、電話して話せばよかったのだ。
さらにはあの公園で晃を呼び止めればよかったのだ。



どうして?何を考えているの?と・・・・・。


しかし、傷つくことを恐れた心がそれを許しはしなかった。



沙絵はそんな自分と奈緒の様子が重なって見えたのだ。
不安を前に進み出ることができなかった自分の弱さ。


だからこそ奈緒に会いに行くことを進めた。
沙絵自身その言葉を誰かにかけてもらうことを無意識のうちに欲していたからだ。




「・・そうだよね。許してくれるかどうかは相手次第だけど、謝ることはできるもんね。うん、あたし会いに行ってみる!沙絵ちゃんありがとう!!」



いくらか吹っ切れた様子の奈緒は先ほど以上のとびきりの笑顔を見せていた。
そしてその様子を見て、沙絵は自分も晃に会いに行こう、そして晃の気持ちを聞こうと密かに決意した。


しかし、これが運命のいたずらが動き出すきっかけとなるとは沙絵には想像もできなかった。
奈緒の次の言葉を聞くまでは。



「久しぶりだから、緊張しちゃうな。・・・元気かなぁ晃くん」




その時不意にいつかの違和感の正体がつかめた。





奈緒・・・。




そう確かにあの時晃はその名前を口にしていた。
愛しい人のその名を・・・奈緒、と。



引っかかりの正体。

もしかして・・・という嫌な予感が沙絵の中に芽生えた。
それは小さな小さな種。


しかしその種はこれ以上ない早さで沙絵の中で増殖していく。

そしてその不安の正体を確かめるために沙絵は口を開いた。




「奈緒ちゃんってどこの高校出身・・・?」



まだ「そう」と決まったわけじゃない。
そんな一粒の期待に望みを賭け、沙絵は奈緒の答えを待った。





だが、嫌な予感ほどその的中率は高い。


「T高校だよ」



目の前が真っ暗になった。




人違いかもしれないと叫ぶ心とは反対に、思考はどんどん冷静になっていく。



ピアノ。
月の光。
T高校。

そして大切な人を晃と呼ぶ彼女に、同じく愛しい人を奈緒と呼んだ彼。



ここまで偶然的に重なる現実があるのだろうか。
もはや思い違いかもしれないという意識は消え去っていた。




晃が恋焦がれて、過去にしがみ付くほど大切に思っている人。
その人にまさかこんな形で出会うとは思ってもいなかった。

そもそも出会うことさえないと思っていたのに―――――――



運命のいたずらだろうか?

沙絵は自分と奈緒が出会ってしまったこと、そして2人の気持ちを知ったことに衝撃を感じずにはいられなかった。


ついさっき、晃に会いに行こうと決めた心は今や見る影もない。



晃が奈緒を想ってどれほど苦しんでいたか、沙絵には痛いほどよく分かっていた。
それはきっと奈緒にしか癒せない傷。
自分に出来ることは2人を応援し、見守ることだけ。



―――――――見守る?
―――――――2人を?
―――――――あたしが・・・?


あたしが2人の未来を応援するの?



悲鳴を上げだす心。
胸の中でざわつく暗く冷たい感情が渦を巻いて一層締め付ける。



あたしには・・・できない・・・・・。


晃くんと奈緒ちゃんの応援なんて。
晃くんが誰かのために微笑む姿なんて・・・・・。


あたしに、微笑んで欲しいのに―――――
あの声も、瞳も、指も全て独り占めしたいのに。


そう、あたしは晃くんを独り占めしたかったんだ・・・・。






つまり、あたしは・・・・・

晃くんを、好き・・・だったんだ。






何かしてあげたい、そう思っていたけど・・・。
本当はあたしが晃くんのそばにいたいだけだったんだ。



嘘偽りのない自分の本当の気持ちを見つけた沙絵は、これから訪れるであろう大きな闇にただただ首を振り続けていた。