無知な戸惑い




日曜日。
まだ太陽が空の一番高い場所に差し掛かっていない頃、沙絵は大学の構内を歩いていた。




日曜日にも関わらず沙絵が大学にいる理由。
それは沙絵の腕に収まっている先週提出しなければならなかったはずのレポートである。


圭介とのリサイタルですっかり忘れてしまっていたレポートの提出日。
期限時刻ギリギリに慌てて教授に謝りに行くと、日曜日の朝イチまでなら譲歩してくれるとの温情をいただいた。
そのため沙絵は日曜日の学校に赴いていた。



もうすでにレポートの提出は済ませ、いつもの公園に行くため帰ろうと正門にむかっている途中だった。
日曜日といっても部活動で構内にはたくさんの人がおり、沙絵はランニング中の運動部とすれ違ったりもした。






あと少しで正門というところで、不意にピアノの音が聞こえてきた。
もちろん吹奏楽部や、管弦楽団などの文化部も日曜日に活動をしているのでピアノの音が聞こえてきても何の不思議もない。

しかしその音色は沙絵を惹きつけた。
そしてその音のするほうへと沙絵は意識を向けた。


が、ちょうどまたどこかの運動部のランニングが沙絵の横を過ぎていき、その音は運動部の掛け声に掻き消されてしまった。




今の・・・一瞬しか聞こえなかったけど・・・・・もしかして・・・・?




沙絵は音が聞こえてきたであろう建物に足を踏み入れた。
微かにピアノの音色が聞こえる。



「上・・・かな」



階段を上っていくと徐々にピアノの音色ははっきりと聞こえてくるようになった。どうやら3階で弾いてるようだと2階に着いた時点で沙絵は確信した。
そして聞こえてくる曲にも確信していた。
それは「月の光」だった。



音の発信地はドアが開いていて、沙絵は後ろからそっと中に入った。
相手が沙絵に気付く気配はない。
それを確認すると沙絵は手近な椅子に腰掛けた。




ピアノを弾いているのは女の人だった。

背中の中ほどにまで達する長い髪が時折窓から入ってくる風にサラサラと揺れている。
そしてその様子は何となく沙絵の中で『しっくり』きた。
この風景に何の違和感もなくその女の人が存在している感じ。



“ホンモノだ”と思わず沙絵は心の中で呟いた。

音楽の知識などないに等しい沙絵だが、この曲「月の光」に関しては深い思い入れがあった。
それでも、この曲はこんなに素敵な曲だっただろうかと思わず感じてしまうほど、魅力的な演奏だった。




息をするのも忘れるくらい、その音は沙絵を魅了した。






目を瞑りピアノの音色が創り出す世界に浸っていると突然音が止んだ。
気付かれたのかな、と思い目を開けると椅子に座ったままの状態で女の人は沙絵の方を向いていた。
目が合った彼女を見て沙絵は驚いた。



「あ!あなたは・・・」
「やっぱり!?沙絵ちゃん・・だったよね?」



見覚えのある顔に聞き覚えのある声。
そして自分の名前を呼ばれたことで沙絵も確信した。


彼女だ。
ピアノリサイタルのときに知り合った彼女だ。



「沙絵ちゃんもここの学生?あたし音楽科なんだ」
「そう、あたしは文学部なの。フルートは趣味でやってる程度で・・・」



音楽科、という言葉で沙絵は妙に納得した。
今聞いた演奏は沙絵が知る中でも一番素敵だと沙絵自身が思ったのだ。

それと同時に彼女と再会できたことをとても嬉しく感じていた。
偶然知り合った趣味の合う少女。
沙絵は彼女にほのかな親近感を持っていた。



「そうなんだ。あ、そういえばあたし自己紹介してなかったよね?桐谷奈緒って言うの。よろしくね」
人懐っこい笑顔を浮かべて奈緒は沙絵に手を差し出した。




一瞬、沙絵の中に違和感が生まれたが、奈緒の屈託のない笑顔にすぐに消されてしまった。
何か大切なことを見落としているような気はしたのだが――――――




沙絵は差し出された手を握り、こちらこそと微笑んだ。



「とっても素敵な演奏だったね。思わず聞き入っちゃった」
「そう?ありがとう。あたしね、この曲を捧げたい人がいるの。いつもその人を心に思い浮かべて弾いてるの。・・・だからすごく嬉しい、そう言ってもらえて」



そう語る奈緒の表情はとても眩しくて、沙絵は羨望の眼差しを向けた。
それと同時に、“誰かのために弾く”ことの素晴らしさを改めて実感した。



「その人・・幸せ者だね。奈緒ちゃんにこんなふうに思ってもらえてて・・・」
「・・・そんなことないと思う・・」
「え・・・?」



予想外の答えが返ってきたことに驚き、奈緒に目を向けるとその表情は暗かった。
そんな様子を目の当たりにした沙絵は何と言っていいのか分からず重い沈黙が訪れた。



「・・なんてね。ごめんね〜変な話しちゃって。沙絵ちゃんもう帰るとこでしょ?あたしもこの後用事があるから・・・」



奈緒は譜面を片付け始め、帰り支度を進めた。
それは何だか気まずさから逃げようとしているように見えて、沙絵は今の言葉が奈緒の本心からの言葉なのだろうと何となく感じた。




「・・・奈緒ちゃん、あたしにはよく分からないけど・・・辛いなら無理することないと思うよ」




そう言った沙絵に奈緒は驚いた様子だったが、すぐに笑顔を作ると「あはは。何でもないってば」と返した。











沙絵が公園に着く頃にはもうすでに1時を回っていた。
いつもの場所でベンチに座って、日向ぼっこをしている晃の後姿を見つけると沙絵は駆け寄っていった。



「晃くん!早かったんだね〜。あたし今日、提出し忘れてたレポート出しに大学まで行ってきたんだ。だから遅くなっちゃった」
「ん・・そうか。お疲れ・・・」



沙絵の言葉に返事こそ返すが、どこか上の空な晃の様子。
沙絵は不思議に思って晃に問いかけた。



「・・晃くん、どうかしたの?」
「・・・・・」



聞いても返事がない。
テンションが低いのはいつものことだが、返事が返ってこないというのは今までにないことだった。
沙絵の不振は膨れ上がる一方。




「ねぇ・・・どうしたの?・・何かあった?」




問いかけても返事の返ってくる様子はない。
こんなことは初めてで沙絵はどうしたらいいのか分からず戸惑っていた。




「あ、そうだ。この前ね、初めて「月の光」のピアノ演奏を生で聞いたんだ。先生がお仕事で行ったリサイタルに着いていって」



沙絵は何とかこの重い沈黙を破ろうと、必死に話題を考え、浮かんだのが「月の光」に関しての話だった。
が・・・今この話題を出したのは失敗かもしれない。




「・・佐倉と?」
「え!?・・うん。そうだけど・・・あれ、何で晃くん先生の名前知ってるの?」

「・・・・・・・」



先生の名前、言ったんだっけあたし・・・?と考えていると、またしても晃の顔は険しい表情になっていった。
よく見ると険しさの中に不安の色も窺えるのだが、焦っている沙絵にはそれは見えなかった。




「・・えっと・・・・」


沙絵は困り果てていた。
明らかに晃の様子はその不機嫌さを増している。
重い沈黙を何とかしようと紡いだ言葉は場を悪化させるだけだった。



・・・・・どうしよう。
何か、・・何か話さなきゃ・・・。



そうは思っても会話が思い浮かばない。
沙絵は1人、パニックに陥っていた。




「・・・悪い。俺、今日は帰るよ・・・・・」


急に立ち上がり歩き出した晃を止めることもせず、ただ呆然と見送ることしか沙絵にはできなかった。