愛ゆえに




「君が沙絵ちゃんか」




「え!?・・・」


圭介と話していたときに突然現れた金髪、碧眼の外人。長身の圭介よりさらに大きい。それでいて整った顔立ちに甘いルックス。
そんな人にいきなり名前を呼ばれ、沙絵は困惑していた。


「えっと・・・」
「沙絵、彼がピアニストのセイだよ」

混乱している様子の沙絵に圭介が伝える。




「えぇ!?セイさんって日本語話せるんですか?」



「うん、そうだよ。俺は昔日本に在住していたこともあったからね」

「そう・・・なんですか。よかった、実は英語あんまり得意じゃないからどうしようって思って・・・コレ準備してたんです」


そう言って沙絵が取り出したのは一冊の英会話ブック。
沙絵は会話に困らないように辞書代わりにその本を持参していたのだ。



「弾む、楽しい英会話・・・?」


本のタイトルを見て思わず圭介とセイは顔を見合わせてしまった。
そして沙絵とその一冊の本を見比べて、2人は笑い出した。


「あははは!あ〜、そんな心配は必要ないね」
「くっく・・・そうか、そんな心配をしてたのか。最初に言っておいてあげればよかったね」


笑いをかみ殺しながら、2人は沙絵に向かって話した。


「何で2人して笑ってるんですか〜?もぉ、ひどいなぁ」


ごめんごめん、と2人は口にした。




「もういいです。それよりセイさん、今日はセイさんの代わりに指名してくださったそうで、ありがとうございました」

「ああ、いいんだよ。俺が君に聞いて欲しかったんだから」



「あの・・・どうしてですか?どうしてあたしに聞かせたかったんですか?」



沙絵の質問を受けて、セイは圭介の方に目を向け、ニヤリと口元を吊り上げた。
セイに視線を向けられた圭介は少し不満げな表情。

そんな2人の様子を疑問に思いながら沙絵はセイの言葉を待った。



「いやぁ、圭介から沙絵ちゃんの話はよく聞いてたんだよ。君、圭介のフルートを聞いてフルートを始めたって言うじゃないか。だから、君にピアノの素晴らしさも知って欲しくてね」



セイは圭介が何も言わなくても、沙絵が圭介にとってかけがえのない大切な存在である事は予想がついていた。

だからこそ、このリサイタルに沙絵を指名したというのもある。
大切なパートナーにささやかな贈り物を、といったところだった。



また、圭介に憧れてフルートを始めた沙絵に、ピアノを聞いて欲しかったというのも本心だった。
大切なパートナーの可愛い教え子に、より豊かな感性を身につけて欲しいという想いを持っていた。
だから沙絵に「ピアノ」という新しい音楽に触れて、刺激を受けて欲しかったのだ。






そしてそんなセイの意図が分かったからこそ、圭介は少し不満だったのだ。


本来なら自分が沙絵にその機会を与えてやりたかった。




だが、圭介は友人の温かい配慮に感謝してもいた。


本当は急な仕事なんてなかったのに、「月の光」がプログラムに組み込まれていることを知った途端、行けなくなったと言い出したのだ。

以前沙絵の話をしたことがあったので、覚えていたのだろう。
「月の光」は沙絵の一番のお気に入りの曲だということを。


そして、俺が沙絵に聞かせてやりたいと心の隅で思ったことさえ、コイツはお見通しだったのだろう。

全くたいしたヤツだ。






「そうだったんですか。セイさん、先生、今日は本当にありがとうございました」


素直に感謝の気持ちを込めてお礼を言う沙絵。
しかしそんな沙絵の言葉に圭介は驚いていた。



セイにお礼を言うのは分かるが、なぜ自分にまで言うのだろう?
そんな疑問が圭介の脳裏に浮かんだのだ。





「どういたしまして、お嬢さん。さて、それじゃ俺はそろそろ帰るよ」


言い残すとセイはいつのまにかホールの出口に呼びつけていた車へと向かって歩を進めた。






セイが帰った後、2人も圭介が車を置いてある教室へと向かって歩きだした。


今日の会場は街中にあるという利点の反面、駐車場が限られているという欠点があった。
そのため仕事上の関係者である圭介に車で来ないようにとの注意が届いていたのだ。

圭介の場合は教室と会場が徒歩圏内という好条件だからこそ出された注意なのだが。







「今日はとってもいい日でした。ピアノでの「月の光」も初めて聞けたし。本当に行けてよかった!」

満面の笑顔で今日の感想を話す沙絵に圭介は先ほどの疑問をぶつけた。



「・・・なぁ沙絵、さっき何で俺にも礼を言ったんだ?」



圭介の言葉に2歩先を歩いてた沙絵はふり返って答えた。


「だって、先生もあたしに聞かせてやりたいって思ったから連れてってくれたんでしょ?そもそも先生がいなかったらセイさんがあたしのことなんて知るはずもないんだし。だから、ありがとう先生!」



言い終えると再び前に向き直し、てくてくと歩き出した。
その後ろでは、圭介が愛おしそうな目で沙絵を見つめていた。






沙絵は知らないんだろうな。

その一言で俺がどれだけ満たされているかということを。
この想いは奥底を知らないかのようにどんどん深くなっていく。
いつか足元をすくわれてしまうのではないかと不安になるほどだ・・・。



初めて圭介に“本気”をもたらせた少女。

そこにあるのは苦しさや憂い。
けれど確かに幸せや喜びも存在している。


そんないくつもの感情を与えた少女は今目の前で無邪気に笑っている。
その笑顔を本当は自分だけに向けて欲しい。


いつだって沙絵のことになると圭介には余裕がなくなってしまう。

愛しさ故に――――――




けれどこの想いをぶつけるにはまだ少し時間がかかる

この愛を受け取って欲しいけど
大きすぎる愛は沙絵を押し潰してしまうかもしれないから



だから

今はまだこの距離を楽しむのだ。
沙絵の心が固まるまで―――――――








「こら、沙絵。そんなにはしゃぐと転ぶぞ」
圭介が沙絵の腕を掴んだ。


「転ぶって・・・そんな子どもじゃないですよ〜」
圭介の子ども相手のような注意に「もう!」と膨れっ面になる沙絵。




掴んだこの手をいつまでも離すことなくいられたらいいのに・・・。


もう目の前には圭介の車が停めてある教室の建物が見えていた。


幸せはそう長くは続かない。
この幸せを確実に、永遠に手に入れるためにはどうしたらいいのだろうか・・・。

どうしたらこちらを向いてくれるだろうか。




そんな物思いにふける圭介と隣で微笑んでいる沙絵。
周りから見れば普通に恋人同士に見えるその光景を、遠くで見つめている人影があることに沙絵は気付かなかった。