回り出す歯車




“沙絵、急で悪いんだが明日何か用事あるか?”



先生からの突然の電話。
先生のデュオパートナーのピアニスト、セイさんと行くはずだったピアノリサイタルへのお誘い。
何でもお仕事の都合でセイさんが行けなくなってしまったらしい。
その後の楽屋への挨拶回りには間に合うそうだが。


ピアノなんてやったこともない上に、フルートだってまだまだ初心者の域なあたし。
だから断ろうと思っていたんだけど、どうしてもと言われて頷いてしまった。
セイさんの代わりがあたしなんかでいいのだろうか・・・?





「沙絵、こっち」
「あ、先生!」

2人は会場のホール出入り口で待ち合わせをしていた。
沙絵がホールに着き圭介を探していると、先に相手の姿を見つけた圭介に呼びかけられた。
人並みを避けながら小走りで圭介の元に向かう沙絵。
そんな様子を圭介は愛おしそうに眺めていた。

沙絵の服装はシンプルなワンピース。もともとシンプルな服装を好む沙絵だけあって、服をしっかりと着こなしていた。
その向かいにはスーツを着込んだ圭介。グレーのスーツに紺のネクタイ、いたってビジネス用といった感じだった。



「悪かったな、突然こんなことに巻き込んで」
「それはいいんですけど、あたしなんかが来ると返ってまずくないんですか?」
「いいんだよ。リサイタル自体は客として行くわけだし、沙絵もたまには生で聞いてみたいだろう?それにセイの希望でもあるんだよ。沙絵を連れて行ってあげて欲しいって」
「セイさんの?でも何であたしなんだろう?」
「まぁ・・・いずれ分かるよ」


それっきり先生はセイさんの話をしようとはしなかった。

よく見ると何だか不機嫌・・・?
何かあったのかな・・・。





ピアノリサイタルは初めての沙絵にとって、とても有意義な時間だった。
フルートをやり始めた影響でクラシックにも興味を持っていたので、知っている曲が演奏されることもあれば、気に入った曲もあった。
普段フルートの音色でばかり聞いている曲をピアノで聞くので不思議な感じを覚えていた。


そして・・・最後の曲は「月の光」だった。
沙絵はこの曲をピアノで聞くのは初めてだった。いつもフルートでの「月の光」しか聞いていなかったから。
同じ曲でも楽器が変わると与える印象に変化があった。

もともとはピアノ曲であったもののせいか、沙絵にもしっくりきていた。
また違った一面を見せられたような感じを受け、全身で感動していた。



「先生・・・もしかしてこれをあたしに聞かせるために、誘ってくれたんですか?」
「沙絵はこの曲が好きだっただろう?元はピアノ曲だから、聞いてみるといいんじゃないかと思ってね」


「・・・先生、ありがとう」



沙絵は前をまっすぐ見つめている圭介の顔をちらっと盗み見た。



いつもそうだ。
先生はさりげなく、いつだってあたしにいろんなプレゼントをしてくれる。
フルートの生徒は他にもたくさんいるだろうに、あたしはそこまで上手い生徒でもないのに・・・。
こんな圭介の態度に、たまにあたしだけ特別扱いをされているんじゃないかとうぬぼれてしまう。
そう、以前の沙絵はそんな圭介の優しさに惹かれていた部分もあったのだ。



不意に胸が締め付けられた。
いつもいつも、あたしのことを見てくれていてありがとう、先生・・・。






アンコールも終わり徐々に客席が空席となっていった。


「さて、セイももうすぐ着くだろうから俺たちは楽屋に行くけど、沙絵待てるか?」
「待ってていいなら待ってます。セイさんにもきちんとお礼を言いたいし」
「そうだな。じゃあロビーで待っててくれ」
「はーい」


じゃ、と手を軽く上げると圭介は人波の中へと消えていった。






圭介と別れた後沙絵はロビーを一周し終えると、外の噴水を眺めることができる場所でソファーに座った。
鮮やかな色を描き出し、秒単位でその色を変えていく噴水は飽きさせることなく沙絵を夢中にした。

気付けばあれだけ騒がしかったロビーも次第に元の静けさを取り戻しつつあった。



「先生たち時間かかってるのかな?」

圭介と別れてからすでに1時間がたっていた。

待っていること事態はかまわないのだが、沙絵が待っていることで圭介たちに余計な気を使わせるのではないかということが不安になってきた。


「先に帰ってるって言えばよかったかな。今メールしたんじゃかえって気を使わせるだけだろうし・・・」


メールで先に帰ることを伝えるということも考えたのだが、もしかしたらマナーモードになっていて気付かないかもしれない。
万が一気がついたとしても、かえって仕事中に携帯に連絡をするのは迷惑になるのではと思い、結局沙絵は大人しく待つことにした。






「待ち合わせ?」


突然声が聞こえたので思わず沙絵は身体を震わせてしまった。

「あ、ごめんね。驚かせちゃったかな。声が聞こえたから誰かいるのかなって思って」


声の主は沙絵と同い年くらいの女の子。
その少女は黒く艶やかな髪をアップし、派手すぎず大人しすぎずその整った顔立ちに似合うアンサンブルのスーツに身を包んでいた。


「あなたも今日のリサイタル聞いてたんでしょ?あたし思わず感動しちゃった」

沙絵の反応を見るでもなく少女は半ば一方的に話し始めた。

「あたしもピアノをやってるんだけど、最後の曲「月の光」には身震いさえしたわ。あたしもあんな風に弾けたらなぁ」

「月の光」という言葉に沙絵はつい反応してしまった。



「あなたも『月の光』を・・・?」
「・・・てことは、あなたも?」


お互いに顔を見合わせること数秒、少女が再び口を開いた。
「そうなんだ!あたしあの曲が大好きなんだぁ。こんなところで思わぬ出会いね」

そういって微笑む少女は、沙絵の初対面という壁を見事に打ち砕いた。



「あ、でもあたしはフルートなの。実は今日初めてピアノでの演奏を聞いて・・・とっても感動したなぁ〜」
「フルートかぁ。ね、いつか一緒に演奏できるといいね」
「うん!あたしピアノとのデュオってやったことないんだ〜」





「沙絵!」

遠くで沙絵を呼ぶ圭介のほうに2人は目をやった。


「あ、もしかして待ち合わせの相手?よかったね。あたしもそろそろ行かなきゃ、じゃぁまたね、沙絵ちゃん」
「うん、それじゃ」

そう言うと少女は颯爽と身を翻し、ロビーの奥へと消えていった。


「沙絵、待たせて悪かったな。・・・今の子、知り合い?」
「知り合いっていうか、今知り合った子。・・・そういえば名前も何も聞けなかったなぁ」
「ふ〜ん、その割には会話が弾んでたように見えたけど。沙絵にしては珍しいね」


デュオの話までしたのに相手の名前すら聞けなかったというのは、それだけ沙絵が我を忘れていた証拠だった。

沙絵はその性格上、守れない約束をすることをあまり好まない。
たとえ軽い社交辞令のようなものでも、守る気のない約束が好きではなかった。

そんな沙絵がこんなミスを犯す原因。
一つはあの少女が沙絵の中にある「初対面に対する壁」をなんなく壊してしまうほど、沙絵に好印象を与え得る人柄だったということ。
そしてもう一つは、それだけ沙絵が話に夢中になってしまっていたということだ。


いずれも普段の沙絵からは想像できないことだった。
それだけ沙絵がその少女に気を許した何よりの証なのだ。