秘めたる想いのその裏に




初めて沙絵に会ったのは冬の寒い時期。
俺は音楽教室でフルートを教えていた。


たまたま生徒が欠席して時間を持て余しつつもフルートを演奏していたとき、不意に視線を感じて振り返った。
一つの影がドアの奥でさっと隠れるように消えた。


人の気配――――――

その気配は姿を隠してもなお、立ち去る様子はなかった。





「そんなとこにいないで出てきたら?」


姿を現さない相手に向かって圭介は話しかけた。

しばらくすると扉が開いておずおずと可愛らしい女の子が入ってきた。
少女は恥ずかしさからか頬を真っ赤に染めて、視線を下げながらも圭介の表情を窺っていた。


「フルートに興味でもあるのかな?」
「・・・はい。綺麗な曲が聞こえてきたのでつい・・・・」


少女ははにかみながらその可愛らしい口を開いた。


「えっと・・高校生くらいの子かな?僕はここでフルートの講師をしている佐倉圭介です」
「あ、あたしは第一高校1年の本宮沙絵といいます。あの、佐倉・・さんが今演奏していたのは何て曲なんですか?」
「今のは月の光という曲だよ。気に入ったのなら頭から流そうか?」
「いいんですか!?ぜひお願いします」


瞳をキラキラと輝かせて待つ沙絵は圭介にとってひどく親近感を持たせるものだった。
その表情一つで誰もが初対面という壁を取り払ってしまうかのような。


そんな沙絵にニコリと微笑みを見せるとフルートを口元に運び息を吹き込んだ。






演奏しながら圭介は先ほどの曲とは別物のように感じた。
確かに同じ曲を演奏しているはずなのに。


それは沙絵のせいかもしれない。

ただ暇つぶしに吹くのと、誰かに望まれて吹くのとでは全く違う。
例え同じ曲であってもそこには演奏者の感情が大きな影響を与えるからだ。

そんな当たり前のことを圭介は今まさに突きつけられたような感じだった。



こんな少女にそんなことを改めて感じさせられるなんてな・・・。



ちらりと沙絵のほうに目を向けると、沙絵は目を瞑って圭介の演奏に聞き入っていた。
そんな沙絵を見つめながら圭介の中では沙絵への興味が湧きあがっていた。




そして演奏終了後、

「とっても素敵でした。実はあたしクラシックとか全く詳しくないんですけど、佐倉さんが演奏した今の曲は素敵な曲だと思います。あたし大好きになりそうです」

「だったらやってみる?」

「え?」



圭介は沙絵に各教室備え置きのフルートを手渡すと持ち方を教えた。


「ここに人差し指、それで中指がここで・・・小指がここね。そうそう」
「こ、こんな感じですか?」

「うん、いい構えだね。じゃあちょっと吹いてみようか。そっと優しく管の中に息を吹き込んでみて」
「え・・・こ、こうですか?」


そう言いながらふーっと息を吹き込む。
が、フルートが音を出すことはなかった。


「やっぱりいきなりは難しいかな・・。それじゃあ・・・・」


言いながら圭介は沙絵の持つフルートから頭部管だけを抜き、同じようにやってみて、と沙絵に渡した。
そして先ほどと同じように息をその管に吹き込む。
それでもやはり音は出なかった。


「うーん、コツをつかめば簡単なんだけどね。・・・こう息を縦に吹き込む感じに・・・・」

圭介のアドバイスを受け沙絵は必死にフルートに息を吹き込み続けた。
すると何度目かの挑戦に微かだがフルートは音を奏でた。



「で・・・出た!?」


「初めてにしては上出来だね。どう、フルートやってみたくない?」



圭介の軽い一言がきっかけで沙絵はフルート教室に通うようになった。



実はその教室は初心者向けの教室ではなかったのだ。コンクール入賞を目指す人たちが通うような上級者向けの教室だった。

そんな教室に超初心者が講師の推薦で入校したため沙絵はしばらくの間好奇の目にさらされることとなったのだが、教室では圭介の付きっきりの指導であったためそんな噂が沙絵の耳に届くことはなかった。




圭介が沙絵を教室に誘ったのはほんの気まぐれ。
ただ本宮沙絵という人物にほんの少しの興味を持ったが故の行動だった。

だが、ともに過ごす時間が重ねられていく中で圭介の沙絵に対する想いもだんだんと膨れていった。


正直、圭介は女子高生に必死になるほど女に困ってはいなかった。
いつだって周りには圭介に憧れる女たちがいたし、それなりの付き合いもしてきた。


けれど心が奪われるということがなかったのだ。

誰と付き合っても常に圭介は冷静だった。
初めて不意を付かれたのが、沙絵と出会ったときなのだ。
だからこそ圭介は沙絵に興味を持ち、そして惹かれたのだった。






あの頃の君は俺にとって妹のようなそんな可愛らしい存在だった。

・・・いや、そう思おうとしていただけだ。

君が微かに俺に好意を抱いてくれていることが分かっていたからこそ、この想いは眠らせなければいけないと思った。



君と知り合う前から俺は数年後にオーストリアに行くことがほぼ決まっていた。
こんなに早いとは正直思っていなかったが・・・。

だから、君を好きだと思う気持ちを封印したんだ。


伝えてしまったなら、それは君に辛い別れを味わわせる第一歩となってしまうから―――――



いつかもし再び君に会えて、君の気持ちが変わっていなかったなら、そのときは・・・・そんな想いを胸に秘め、オーストリアへと旅立った。






日本に帰ってきて、初めて沙絵と会ったとき、俺はやはりこの想いを胸にしまおうと思っていた。

沙絵がとても幸せそうに見えたから。



だから自分勝手だけど、晃に会って、晃が沙絵にふさわしい相手だと納得できたなら、俺は沙絵にとって頼れるお兄さん的存在でいようと決めていたんだ。


できることなら沙絵を苦しめたくはない。沙絵が幸せなら俺はきっと祝福できる。
俺が沙絵を苦しみに巻き込むような事はできればしたくなかった。

いつだって穏やかな愛に包まれていて欲しかったから。




けれど・・・彼の反応は俺の期待を大きく裏切った。

俺の挑戦的な言葉に堂々と立ち向かってくれると思っていたのに。
彼の沙絵への想いが俺より深いとは到底思えなかった。



俺のほうが沙絵を幸せにできる、そんな気持ちが膨らんだ。




走り出してしまった想いは加速度をどんどん増していく。
もう俺には何も見えない。君以外の何も――――――





君のためなら何でもする。
君の分の苦しみも背負うし、たくさんの幸せを与えたい。

だからもう一度俺に振り向いてくれないだろうか?
誰よりも、誰よりも幸せにするから。