見えない亀裂
「え?日本で・・・ですか?」 ここはとある音楽教室。沙絵が以前通っていた教室である。 沙絵はそのときの講師、佐倉圭介の音に憧れてフルートを吹いていたのだ。 圭介は沙絵が高校3年生のとき有名ピアニストのデュオ候補としてオーストリアに行ってしまっていた。 ところが数ヶ月前に休暇と言って日本に帰ってきたのだ。 それから沙絵はちょくちょくこの教室に顔を出していた。 もともと良く来てはいたのだが。 「そう、ピアニストのセイはもともと大の日本好きでね。しばらくは日本を活動の拠点とすることになったんだ。だから沙絵も気兼ねなくいつでもここにおいで」 「はいっ!!わぁ〜、そのセイさんに感謝しなくっちゃ。先生、またフルート聞かせてくださいね。」 「そういえば、彼は元気?」 “彼”と言われて沙絵は一瞬顔を顰めた。 そしてすぐに以前圭介に晃の話をしていたことを思い出した。 話と言っても、ただ晃と友達になったこと、そして誰かに聴いてもらう中で演奏することの楽しさ・喜びを圭介に話していたくらいだが。 「あ〜晃くんですか?」 「そう、晃くん」 「元気ですよ〜。相変わらずあたしのフルート聞いてくれるし」 「彼、もしかして木之下グループの親族か何かだったりするのかな?」 「!?どうして知ってるんですか?」 「やっぱりね、T大の付属に通ってたって言うからもしかして・・・と思ったんだ」 「やっぱりT大の付属って聞くと資産家を想像しちゃいますよね」 「そうだね。あそこは特殊な学園だからね」 「そうなんですよね〜。T大も何か場違いな感じしちゃうんですよね」 「へぇ〜・・・沙絵はT大にまで赴いてるんだ。もしかしてかなり御執心?」 圭介は沙絵に冷やかしの眼差しを向けた。 その奥に憂いが込められていることなど気付かず、沙絵は口を開いた。 あくまで冷静を努めて。 「そんなんじゃないですよぉ〜。もぉ、先生ってば・・・」 そんな沙絵の言葉に戸惑いと迷いが込められていることに圭介も気付かない。 「・・・そうか、木之下グループの・・・・・・」 そう小さく呟くと口元に微笑を浮かべていた。 次の日、T大学の正門に佇む1人の青年の姿があった。 先ほどから何人もの女性に声をかけられているが、そのどれもに「人を待っているので」 と笑みを携えながら、けれども有無を言わせない威圧感を持って返事をしていた。 そして何人目かの女性を断ったとき、目の端にうろ覚えではあるが、見覚えのある少年を見つけ圭介は近寄っていった。 晃は突然目の前に現れた見ず知らずの男をいぶかしげに見つめた。 「お久しぶりです、晃くん。佐倉圭介です。いやぁ、お父さんに似てカッコ良くなったね。すぐに晃くんだって分かったよ。・・・と言っても晃くんは分からないかな?」 「・・・誰?」 自分と知り合いかのような口調で話すので、晃は自分の記憶を辿った。 これほどまでの美形ならば一度会ったら忘れないと思うのだが・・・。 「無理もないか。僕が君に最後に会ったのは君が5歳のときだから。僕は君の家のパーティーに招待されてフルートを演奏したことがあるんだ。それ以降君があのパーティーに参加することはなかったから覚えていなくても当然だ」 ホームパーティー――――――― 確かに小さい頃は参加していたが、小学生に上がった頃から大人ばかりのパーティーでは退屈だろうと父親だけ参加していたのだ。 高校生になった頃からはまたパーティーに出るように言われていたのだが、何かしら理由を付けて断っていた。 ああいう場はあまり好きじゃないからな・・・。 しかしそんな父親の関係者が自分に一体何の用があるのだろうと不思議に考えていると、圭介が話し出した。 「今日はお父さんの知り合いとしてではなく、本宮沙絵の知り合いとして会いに来たんだ」 「沙絵の?・・・あ、それじゃ沙絵のフルートの先生って・・・・」 「そう、僕だよ。君の事は沙絵を通して知っているよ」 暗に沙絵との仲の深さを晃に見せつけようとする。 「そうですか・・・。それで何の用ですか?」 晃も負けじとぶしつけな態度をとる。 「ふふっ。そう敵意むき出しにするなよ。心配しなくても沙絵から君の話なんて聞かないよ。君の名前を教えてもらったくらいさ」 相手が急に穏やかな態度に変わったので晃は困惑しつつも少しほっとしていた。 「今日は君に忠告をしに来たんだ」 圭介の表情から笑顔が消え、代わりに険しいほどの視線が晃に向けられた。 それは男の子に向けるものではなく、1人の男に向けるかのような。 「今までは仕事で海外にいたけれど、これからは仕事の拠点が日本になってね・・・。だからもし君が沙絵を苦しめるようなことをしたら、その時は遠慮せずに奪いに来るから」 いきなりのライバル宣言。 真剣な眼差しで年下相手にも正々堂々と話をする圭介に晃はいくらかの好感を覚えた。 が、それ以上に晃の中で何かがざわめき出した。 そのざわめきが何なのか、そのときの晃には分からなかった。 というより現状を理解しようとすることに必死で気がつかなかった。 そして絞り出せた答えは、事実以外の何者でもなかった。 「奪うも何も沙絵は別に俺のものじゃないですから・・・」 「そうか・・・・それなら余計好都合だ。後で後悔するなよ?」 そう言うと圭介はさっさと帰っていった。 取り残された晃は今起きたことを整理していた。 圭介からのライバル宣言。 なぜ俺に言いに来たのだろうか? 沙絵は俺のものではない。それは事実だ。 事実だが――――― 俺は沙絵をどう思っているんだろうか・・・? 一緒にいて楽しいし、これからも今までのような関係を続けていきたいとは思う。 だけど 沙絵を好きなのかと考えると途端に思考はストップしてしまう・・・。 脳裏に浮かぶのは奈緒の面影。 思い出になりつつあるその影は今まだ晃の胸で燻っている。 それは想いを伝えられなかったことからくる後悔か、それとも未だ消えない甘い痺れか。 圭介にライバル宣言されても晃は身動きさえ取れない状態なのだ。 自分の気持ちが分からない・・・。 佐倉――――――― あの言葉からすると佐倉が沙絵を好きなのは一目瞭然だろう。 もし「奪われたら」俺と沙絵の関係はどうなってしまうのだろうか? |