奇遇







「あぁ〜〜〜〜〜、分かんないっ!何で参考書の通りにやってるのに答えが出ないのよ!?」


土曜日の午前中。
昨日あれだけ泣いたせいか、茜は朝すっきりと目覚めることができた。
茜の父親は「休みの日なのに朝から起きてるなんて!?」と驚き目を丸くしていた。
茜にしてみれば「はぁ〜?」と言いたいところだが、普段が普段なだけに大人しく朝食を食べることに専念したのだった。
母親の方は最初こそ心配そうな目を茜に向けていたが、朝食をしっかりと食べている元気そうな様子から、すっかり安心していた。
茜自身も、心配していたのとは裏腹に目の腫れはほとんどなく、安心して両親の前に姿を現すことができたのはありがたかった。



この土日が明けた月曜日、それは例の数学の課題の提出日となっていた。
数学教師・新垣は提出日に遅れた生徒にはさらにノルマ課題を増やしていくことが有名で、茜としては何が何でも遅れることは許されなかった。
そのためこうして日が高くなる前から机に向かっていたのだ。


『もしもし』
「あ、百合子〜!?ねね、数学の課題一緒にやんない?」


1人で課題を終わらせるのはやはり無理だと悟った茜は、友人に助けを求めて携帯電話を手に取った。


「あと半分が終わらなくって〜・・・」
『立川くんはどうしたのよ?』
「え!?・・え〜っと・・ゆ、悠太は、何か用事があるみたいで・・・・・」


嘘だった。
ここ数日、ろくに悠太と会話らしいものをしていない茜が、悠太の今日の予定を知っているわけがない。


『ふ〜ん・・・・・』


あからさまに疑いの声を上げる百合子に「お願い!」と茜は頼み込んだ。


『お生憎様〜。あたしもう終わってるし。これからデートなの』
「えぇぇ〜〜・・・・」
『教えて欲しいんなら立川くんに頼みなさい!』
「百合子・・・アンタ友情と恋愛、迷うことなく恋愛を取るタイプなのね」


精一杯の嫌味をぶつける茜だったが、百合子の方が何枚か上手だった。
『当たり前でしょ!』と言ってさっさと電話を切ってしまったのだ。

ツー、ツー、ツーと電子的な音のする携帯電話に向かって「この裏切り者!」と叫んだところで、どうにもならないのは当たり前である。


どうしよう・・・。これ絶対あたし1人じゃ終わんないよね。
かといって、悠太に頼るわけにもいかないし・・。


「困ったなぁ」と呟きながら茜は机に突っ伏した。
そこへコンコン、とノックの音が聞こえる。


だ、誰―――――!?
ま、まさか、悠太・・・・・・?


一瞬焦った茜だったが、ドアを開けたのは茜の母親だった。
「どう?進んでる?」と声を掛けながら、紅茶を持ってきたのだ。


「何だ、お母さんか・・」
「まぁ!何て言い草・・。せっかく紅茶持ってきてあげたのに」


茜の母親は眉間に皺を寄せながら、でも口調ほど気にした様子もなく茜に近づいていった。


「ありがとー!・・・はぁ〜、おいし」


紅茶を受け取り口に含む。
たちまちさっぱりとした味わいが口の中に広がった。


「あんまり進んでないみたいねー」
「う・・・」
「悠くんは出掛けちゃってるみたいだし」
「え?・・そうなの?」


悠太に頼ってはいけないと思っているのに、悠太がいないことを知るとたちまち不安は広がった。


どこへ・・誰と、出掛けたんだろう?


今まで悠太が家にいようがいまいが気にしたこともなかったのに、好きだと自覚した途端気にするなんて。


これはいよいよヤバイかな・・・。
でも、悠太に会ったところであたしはちゃんと笑えるんだろうか・・・?


そんな弱気な気持ちが膨れ上がりそうになるのを、茜は無理矢理胸の奥に押し込むように勢いよく紅茶を飲み干した。


「ええ。生徒会の用事があるらしくって、朝早くから出掛けたんですって」
「そうなんだ・・・」


不謹慎だと思いながらも、心には安堵が広がる。
こんな自分に嫌悪感すら覚えるのに、心は正直だった。
そのことにまた、虚しさが込み上げる。


「あ、そうだ!茜、たまには気分を変えて図書館とかで勉強してみたら?雰囲気も落ち着いてるし、捗るんじゃない?」


母親は明るい表情で活き活きと自分の閃きを茜に伝えた。
気持ちが沈みかけていた茜にとってもその提案は新鮮なものだった。


図書館・・・。そっか、それいい考えかも。
家でやるより集中力上がりそうだし、図書館なら参考書もいろいろあるだろうし!






母親の言葉に促されるように、茜は早速図書館へと出掛けていった。

茜の住む市には大きな図書館が2つあった。
その1つは専門書の類のものが多く、利用者は専ら大学生や研究職についている人だ。
茜が目指しているのはもう1つの方。
そちらは小説から参考書、ベストセラー本など幅広い分野の本が取り集められているため、誰もが気軽に利用できる場所だった。



館内に着くとたくさんの人がいるものの、その多くは本を借りて帰るため、席には余裕があった。
茜はその中の手頃の席を確保すると、自前の参考書とは別の参考書を探しに本棚の中へと入って行った。


えっと・・・・数学U、数学Uっと・・・。


いくつかそれらしい棚を探すものの、学校の参考書と同じものばかりが目に付いた。
それでも根気よく探していると、人目を避けるかのようにひっそりと置かれた一冊の本が目に付いた。

『数学U ――完全マスター版――』


これだ!!
なんて言ったって「完全マスター」だし!これならきっと、あの課題もっ!


そう思い、茜はその本に手を伸ばした。


「!?」
「えっ!」


茜の手と、もう一つの手がタイミングよく同じ本に伸ばされた。
瞬時に「ぶつかる!」と思ったが、全てが一瞬の出来事でお互いにどうすることもできず、結果2本の手は勢いよくぶつかった。
勢いがよすぎたのか、ぶつかった手には少し痛みが走った。
思わず顔を上げると、相手も少し怪訝な顔を浮かべながら茜の方を見ていた。

おそらく茜と同い年くらいの男子。
高校生男子の平均身長くらいの高さのように思えるが、普段一緒にいる悠太が180センチを軽く越えているから、少し小さく見える。
そのため、何となく相手の目線を近く感じた。


「あの・・ごめんなさい。・・・手、大丈夫?」
「あ、いや、こちらこそ。すんません」


そう言ったきり会話は途切れてしまった。
普通なら謝り終わったのだからさっさと行ってしまえばいいわけだが、今はそうもいかない。
何せ、同じ本を取ろうとして2つの手がぶつかったのだ。


「えっと・・あなたもその本、使うの?」


気まずさを引きずりながら、相手を窺うように訪ねると「そっちも使うんだ?」と返された。
本は一冊しかないうえに、提出期限は迫っている。
ここは譲るわけにはいかないと思いながらも、茜はどうしたものかと考えていた。


・・・・強く出たら、譲ってくれないかなぁ?


そんなことを考えていると、突然相手が口を開いた。


「あんたさ、5組の三木本・・だろ?5組も数学、新崎なのか?」
「え・・そうだけど」
「俺、3組の広瀬。俺のクラスもあの課題出たんだよな」


そう言ってニカッと人懐こく笑った。
先ほどの怪訝な表情からは想像できないほどの笑顔を浮かべている。
その笑顔だけで初対面という境界線を軽々と乗り越えられるような、そんな温かみのある笑顔だった。

当然、茜はそんな広瀬に大きな親しみを感じた。
元々サバサバした性格から初対面でも物怖じしない茜であるため、より一層だ。


「課題って、あの数学のプリント3枚?」
「そうそう!だからこうして図書館に出向いてるってワケ」
「あたしもそう!ホントやんなっちゃうよ」
「な・・・アンタもこの本使うんだろ?だったら一緒にプリントやんない?1人でやるより2人でやった方が早く終わるだろうし」


断る理由などない茜は即答でその誘いに乗った。
その後、茜は広瀬の席の隣に移動し、参考書を真ん中に広げプリントと格闘し始めた。
お互いに分からないところで立ち止まっては参考書を覗き込む。
次第に1問1問一緒に解きながら進むようになっていった。
広瀬が茜に教えることがほとんどであったが。






「広瀬クン、さすが3組だね〜。頭いいじゃん!」


休憩がてら、図書館に併設されているカフェレストランで茜と広瀬は少し遅めの昼食を摂っていた。


「んなことないって。3組ったって1組には遠く及ばないし、普通クラスとほとんど変わんないって」


茜たちの学校はトップクラスには入らないものの進学校であるため、クラス編成は細かかった。
トップクラスではないからこそ余計細かいということもあるだろう。
つまり「追いつけ追いこせ」という雰囲気の進学校なのである。

1〜5組が理系、6〜10組までが文系で構成され、共に数字の若い方から成績順に分けられるのである。
つまり理系クラスで言えば、1組は超特設クラスであり県内トップクラスに食い込むほどの優秀者が集まり、5組は基礎クラスとされている。
階段のようなクラス編成ではあるが、その中でも3組と4組の差は、4組と5組の差より遥かに大きい。
3組まではクラスの大半が国公立や有名私立へと進むのである。


「そんなことないよ!だってほとんど教えてもらったし。分かりやすかったよ」
「そういう三木本だって、プリントの前半完璧だったじゃん。新崎のプリントって難しいのにさ」


それは悠太に教えてもらったから!―――――なんてことは言い出せず、茜は「あはは・・」と乾いた笑い声を上げたのだった。


「そう言えばさ・・隣のクラスでもないのに、よくあたしのこと分かったね?」
「ああ・・。そりゃ『三木本』って言えば有名だしね」


その言葉が腑に落ちず、茜は「有名?」と広瀬に聞き返した。


「そ。時期生徒会長候補で成績は全校トップの立川の幼馴染!ってね」
「・・それ、あんまり嬉しくない。何か“七光り”みたいじゃん」


少し膨れながら広瀬にそう告げると「まだあるぜ」と続けた。


「そんな立川に迫力負けしない唯一の女!とか」
「結局、悠太柄みなワケね・・」


さらに膨れながらそう言うと、広瀬は笑いを殺しながら話し出した。


「冗談、冗談!・・ホントはアンタに興味を持ってる男子けっこう多いんだよ?」
「ホントに〜?全然説得力ないし」
「あ、信じてないな?」
「当ったり前でしょ!からかい半分のヤツの言葉なんて誰が信じるか」


怒ったポーズをしながら茜がそう返すと「そりゃそうか」と広瀬はおどけて言った。

今日初めて会った相手とは思えないほど会話が弾み、茜は大きな気晴らしを得ることができていた。

吹っ切ると決めた気持ちではあるが、悠太との距離の近さのせいで、少しでも気を抜けばその決心が崩れてしまいそうで茜は怖かったのだ。
だからこそ、「昨日の今日」という一番辛いであろう日に、いつもとは違う場所で新たな出会いを持てたことが茜にとっては大きな幸運だった。



注文した料理が運ばれ、茜は午前中の勉強疲れを吹き飛ばすように嬉しそうに食べ始めた。
そんな茜を見つめながら「ま、君のガードマンは手強いからね」と言った広瀬の一言は、食事に夢中になっていた茜には届かなかった。