目覚めた思慕
悠太と会わなくなって4日目の授業が終わった。
4日という時間の流れを長く感じながらも、心のどこかではあっという間だったようにも思う。
最近は時間の流れがよく分からない。
朝になると淡々と時間が過ぎていくのに、夜を迎えるとどこまでも続くかのように長く感じる。
だからかな・・・家に帰るのが何となく億劫だ。
別に家が嫌いとかそういうんじゃなくて、“夜”を実感してしまうから。
長い長い夜がまた来るのかと思うと気持ちは塞ぎこんでしまうのだ。
眠れない夜は相変わらず続いたままだった。
そんなことを考えつつも、茜はゆっくりと家に帰るための準備をしていた。
帰らないわけにはいかないのだから。
「きっと数学の課題さえ終わればこんな塞ぎ込んだ気持ちも晴れるはず」なんて適当な理由をこじつけて。
そうでも思わなければ、重く沈んだ気持ちを引きずったまま家に帰ることなんてできそうになかった。
「茜!」
それは突然。
無意識だったからこそ、実際以上に響いて聞こえた自分の名前を呼ぶ声。
振り返ると、そこにいたのは悠太だった。
久しぶりに悠太を見るせいか、何故だか緊張が走る。
自分の席に座ったままで、悠太に声をかけようとした。
その声が震えてしまいそうなのを気づかれないように、必死に冷静を努めて。
「な、なに?」
「一緒に帰ろう。話もあるし」
いつにない真剣な悠太の顔つき。
それが余計に茜の胸ざわつかせる。
普段、あたしに対してそんな深刻な表情を向けないのに・・・。
それに教室まで迎えに来ることなんて今までなかったじゃない。
そうまでしてしたい話って、なに・・・?
じっと見つめてくる悠太の顔を見つめ返してみても、何一つ読み取れない。
むしろその視線の力強さに思わず目を逸らしてしまいそうだった。
非日常的なその悠太の態度が、茜の思考を一番最悪なシナリオへと導いた。
もしかして、「彼女」をあたしに紹介するつもりなんだろうか?
そう考えた瞬間、目頭が熱くなるのが分かった。
何故涙が出そうになるのか、そんなことを考える余裕はない。
代わりに、自然と湧き出てくるのは否定の気持ち。
・・・・・イヤ。
そんなの、聞きたくない・・。
考える前に、体が勝手に動き出していた。
茜は、悠太の横を通り過ぎて、走った。
後ろの方で自分を呼ぶ悠太の声が聞こえる。
でも、茜は立ち止まることなく走った。
「立ち止まったらいけない」そんな強迫観念に駆られて。
走って、走って、走り抜き、気づくとあたしは家から少し離れた場所にある川辺に来ていた。
そこは、まだ悠太の弟・庄平も生まれてない頃、悠太と2人でよく遊んでいた場所だった。
あたしたちは大人の目を盗んで、いつもの遊び場所から少し離れたここによく来ていた。
それは自分たちの世界から抜け出して、大冒険をしているかのような気分を起こさせ、悠太と2人飽きることなく遊んでいた場所だ。
最近ではあまり来ることはなかったけど。
・・・懐かしさを感じさせる場所だった。
茜は川辺に座って、風を体全体に受けながら、水の流れる音に耳を傾けた。
いつまでも変わることのない穏やかな光景は次第にざわついていた心に静けさを取り戻させた。
そのまま目を瞑ると、意識はだんだんと遠い過去に戻っていく。
その全てが悠太との思い出だった。
2人でここに来てはしゃぎ回ったこと、家に帰って揃って両親にこっぴどく叱られたこと、それでも「2人でまた来よう」と約束し、よくここに来ていたこと。
小学生のときの思い出も、中学生のときの思い出もいつだって隣には悠太の姿があった。
いつだって悠太の存在だけは茜の中で変わらなかった。
それほどに近くて、かけがえのない存在だったのだ。
そっと目を開けると、子どもの頃に見ていた景色と全く変わっていない風景が瞳に映り込む。
ここはあのときのままなのに、自分たちはあのときとは違うのだ。
そのことを改めて突きつけられた感じだった。
同じ風景なのに、それを見ている自分自身は無邪気に笑い合っていたあのころとは変わってしまった。
さっき、あたしはどうして悠太から逃げたんだろう―――――――
そんな疑問は浮かぶ前に打ち消されてしまった。
・・・・・・あたし、悠太が好きなんだ。
幼馴染という確固なつながりを失いたくなくて、恋なんていう脆いつながりじゃ不安で。
あたしはずっと、悠太が好きだという気持ちから目を逸らしていただけ。
隠れていた真実は意外にあっさりとその姿を現した。
・・・けれどもう遅いのだ。
茜は手元の砂を一掴み掴んだ。
が、風に吹かれて指の隙間をサラサラと、今掴んだばかりの砂が零れていく。
昔、公園の砂場で悠太と一緒に大きなトンネルを作ったことがあった。
壊れないようにと何度も水で固めた砂のトンネル。
けれど、次の日その砂場に行くと、トンネルは影も形もなくなっていた。
それを見て悠太は「当たり前だろ」と言った。
でもあたしはその「当たり前」が受け入れられなくて、わんわん泣いたっけ・・・。
どんなに願いを込めても砂はあっけなくその願いを奪っていった。
あたしたちの関係も何だか砂に似てるな。
あたしがどれだけ悠太との変わらない関係を望んだって、聞き届けられることはない・・・。
それに、あたし自身も、もうすでに変わってしまっているのだから。
どうして気づかなかったんだろう。
今更、悠太の隣を明け渡すことなんてできないのに。
例えそれを悠太が望んだとしても、あたしは自分からこの場所を手放すことなんてできない。
それほどまでに、あたしにとって悠太の存在は大きくなっていたのに。
頬に冷たさが走った。
それがあたしの目から溢れる涙だということに、咄嗟には気づかなかった。
次から次へと止まることなく流れる雫。
・・そしてこぼれる自嘲的な笑い。
「はは・・・バカだな、あたしって・・・」
大事なことに、失ってからしか気づけないなんて。
広い背中、凛とした顔立ち、口が悪いけど本当はとっても優しいヤツ。
16年分の悠太が次々と浮かんでくる。
こんなに大切だったのに、失ってしまったんだ。
あたしに残されているのは「幼馴染」として在り続けることだけ。
この想いを伝えることさえ出来ない。
言ってしまえばさらに遠い存在になってしまうことが分かっているから。
「少しでも悠太の近くにいたい」そう思うあたしに残されているのは「幼馴染」を演じ続けるということだけ。
ねえ、もしあたしがもっと早く自分の気持ちに気がついて、それを悠太に伝えることができていたなら、あたしたちは今もっと近い場所にいられたのかな。
ただの幼馴染じゃなくて、もっと違う2人になれていたのかな。
そんな後悔に身を寄せていると、涙は枯れることを知らず溢れ出てきた。
涙の一粒一粒に悠太への想いを詰め込んで、泣き腫らす頃には悠太への想いがなくなっていればいいのに。
そんなこと、できはしないと分かっていても、そう願わずにはいられない。
ちゃんと仲のいい幼馴染に戻るから。
だから、今だけ少し、泣いてもいいよね?
悠太が好きって想いを、今だけ、この胸に溢れさせてもいいよね?
どれくらいそこにいたのだろうか、ふと我に返ったとき辺りはもう暗かった。
遠くに住宅の灯りが見える。
――――――帰らなきゃ。
どんなにあがいたって時間は止まらないし、戻らない。
あたしは家に、悠太の家の隣にある自分の家に帰らなきゃいけない。
まだ気持ちは重苦しいけど、おもいきり泣けたことで少しは冷静さを取り戻していた。
茜は勢いをつけて立ち上がると、家へと一歩ずつ歩き出した。
家に帰ると母親から悠太が来たこと、帰ったら連絡するように言っていたということを伝えられたが、気分が悪いと言って部屋に逃げ込んだ。
とてもじゃないけど、今の状態で悠太と話なんかできないよ・・・。
きっと、あたしいつも通りに笑えない。
悠太の幸せを一緒に喜んであげられない。
そんなの幼馴染としてヒドイと思うから。
でも、どのくらいの時間をかけたらあたしは悠太の幸せを心から祝福できるんだろう。
16年という月日は、あたしにとっては重い。
好きだと自覚したばかりのこの気持ちを、あたしはこれからどうしたらいいのだろうか。
フラフラとした足取りでベッドへと辿りつく。
億劫さを感じながらも制服をハンガーにかけ、部屋着に着替えると茜はそのまま倒れこんだ。
ベッドに潜り込むと、闇の静けさに誘われてまた涙が溢れ出した。
昨日までは夜の闇には、言葉にできない不安のようなものを感じていた。
それはきっと自覚していなかった想いを無意識のうちに感じ取っていたからだろう。
闇は人の不安を煽るから。
でも今夜は・・。
今夜の闇は何故だか安らぎを感じる。
それは無意識に目を背けていた想いを自覚したことにより、自分の全てを直視できたからかもしれない。
眠れない夜を過ごしてきた茜にとって、今夜の闇はむしろ温かく包み込んでくれているような気さえした。
その安堵感に誘われてか、涙は次々と流れてきた。
明日は学校がないから、泣き腫らした目を友達に見られる心配もない。
「今日だけ、今日だけだから」その言葉を何度も呪文のように繰り返し、次第に泣き疲れながら茜は眠りに落ちていった。
ここ数日分の睡眠不足を取り戻すかのような、深い深い眠りだった。
ドアチャイムが鳴り、茜の母親は洗い物をしていた手を止めてパタパタと玄関へと向かった。
ドアを開けるとそこには見慣れた人物の姿があった。それは先ほど娘の代わりに電話をした燐家の青年だった。
「茜、気分が悪いって?」
「悠くん!そうなのよ・・夕ご飯も食べないから、ちょっと心配なのよね。あ、もしよかったら様子見てきてくれないかしら?食べれそうならお粥か何かを用意するから」
「いっすよ」
茜の母親の勧めで悠太は家に上がりこむと、茜の部屋へと向かった。
部屋の前で一旦立ち止まると軽くノックをする。しかし返事はない。
待っていても部屋の中の住人が動く気配はないので、悠太はそっとドアを開ける。
部屋の中は真っ暗だった。
静かにドアを閉めて普段の記憶を頼りに一歩ずつ慎重に足を進めた。
だんだんと目が暗闇に慣れてきて、薄っすらと物の形が見えてきた。
目当ての人物はすでにベッドの中で眠りの世界へと行ってしまっていた。
悠太が茜の枕元に近づくと、茜の目元に一瞬光を感じた。
何だろうと思いながら、そっと手を伸ばすと、茜の目元は濡れていた。
それは涙が反射したものだ、と理解すると同時に複雑な心境になった。
その涙は誰のために流したものなのだろうか。
今日聞いたばかりの百合子の言葉が脳裏に蘇ってくる。
これは自分のために流してくれた涙なのだろうか?
実際、百合子に茜が苦しんでいると伝えられたところで、悠太には実感が湧かないでいた。
今までの茜からは到底想像できなかったからだ。
加えて悠太自身は落ち込んでいる茜の姿を見ることはなかった。
確かに、今日の放課後自分を振り切って去ってしまった茜に疑問は浮かんだが、だからといってそれが自分の噂が原因なのかどうかまでは分かるはずがない。
悠太は茜を起こして話をしたい衝動に駆られたが、必死にそれを抑えて冷静さを保とうとした。
しばらく茜を見つめていた後、静かな笑みを浮かべるとそっと部屋を出て行った。
「茜、ぐっすり眠れてるみたいだから、明日の朝ご飯は食べれると思いますよ」
そう茜の母親に伝えると「そう、それなら安心だわ。ありがとね悠くん」と茜の母親に笑顔を向けられた。
しばらく2人で他愛もない世間話をしたところで、悠太は自分の家へと帰っていった。
|