惑う境界
その日、茜はどうやって1日を過ごしたのか意識がなかった。
ただ気がついたら、学校が終わって、そして家に帰っていた。
その間、グルグルと頭の中を巡っていたのは、百合子のあの言葉だった。
“幼馴染っていう立場上、譲らなきゃいけないことがたくさん出てくるんじゃないの?”
あたしは、悠太の幼馴染だから。
それ以上でもそれ以下でもないんだから。
幼馴染っていう境界線を作らなきゃいけないんだよね。
それがあたしの、幼馴染としての役目。
きっと悠太だってそれを望んでいるはずだから。
ただ、できることならもう少し時間が欲しかった。
全ての出来事が茜にとっては突然すぎて、頭が着いていかない。
ずっと隣にいた幼馴染に引く境界線が、今の茜には見えないのだ。
どこまでが『幼馴染』でどこからが『譲らなければならないこと』なのか。
刻一刻と過ぎていく時間は、茜に追い討ちをかけるかのように急かしながら流れていく。
今の茜にできることはただ一つだけだった。
「おいっ!」
急に大きな声がしてびっくりしながらあたしは我に返った。
そこは自分の部屋で、悠太が部屋のドアの前に立っていた。
「何ボケッとしてんだよ。ノックしてんのに。・・昨日の続き、やるぞ」
そう言って悠太はあたしの机の上に数学のプリントを広げた。
「今日で終わるといいんだけどなー・・・」
教科書や参考書のページをめくりながら呟く。
あたしはただ、悠太の姿をじっと見ていた。
そんなあたしの視線を不思議に感じたのか、悠太があたしの顔を覗き込む。
「・・茜?どうした?」
「もういいよ・・・・」
「もういいって、何が?」
あたしの言葉の意味が分からないというように悠太は聞き返す。
「全部・・。朝起こしてくれるのも、こうやって課題見てくれるのも全部、もういいから」
「は?」
「悠太だって、自分のやらなきゃいけないことあるでしょ?あたしたち、ただの幼馴染なんだから!・・このままじゃダメなんだよ」
悠太には悠太の道があって、あたしにはあたしの道がある。
「幼馴染」というつながりで、ずっと一緒にいられたけど、悠太には彼女ができたんだもん。
あたしがずっとこの位置にいていい訳がない。
あたしは「幼馴染」なんだから、悠太の隣を「悠太の彼女」に明け渡さなきゃいけないんだ。
今のあたしには「幼馴染」の正しい線引きなんて分からないから。
そんなあたしにできるのは、「幼馴染」である悠太から距離をとることだけ。
きっと意識的に距離をとらないと、あたしはいつかまた「幼馴染」の境界線を見失ってしまうだろうから。
「このままじゃダメって・・・何で?」
「だって・・・・・」
言葉に詰まってしまった。
何となく「悠太に彼女ができたから」とは言えなかった。
その言葉を口にしたくはなかった。
黙り込んでしまったあたしに、悠太は軽くため息をついた。
「俺にとっては、茜は茜だ。幼馴染とかそんなの関係ない」
「それじゃダメなんだってば!」
一向に折れる気配のないあたし。
先に匙を投げたのは悠太だった。
「訳分かんねー。・・帰るわ」
そう言って悠太は部屋を出て行ってしまった。
残ったのは重く沈んだ気持ちと言いようのない喪失感。
だけど―――――――――
これでいい。
これでいいんだ。
ずっと一緒にいられるわけじゃないんだから。
あたしの大切な幼馴染。
悠太には幸せになってほしいから。
それなのに胸が辛いのは、きっと自分の半身とも言えるほどの存在を失おうとしてるからなんだろう。
「あたし、男の子だったらよかったな・・・」
茜の小さな願い。
もし、あたしが悠太と同じ「男」だったなら、きっとずっと変わらずにいられた。
あたしが「女」で悠太が「男」だから、「幼馴染」というつながりに限界があるんだ。
ずっと変わらない関係でいたかった。
あたしにとっても悠太は悠太だから―――――――
次の日の朝、悠太はあたしの家には来なかった。
あたしはまたしても自分の母親に起こされ目を覚ました。
目を覚ましたと言うよりは、眠れていなかったと言う方が正しいだろう。
一晩のうちに何度も目が覚め、明るくなったときにはもうすでに意識がはっきりしていた。
朝食もそこそこに学校へと向かう。
ここ数日のあたしは、遅刻とは無縁の時間に登校することができていた。
そのため登校途中に友人と出くわすという、何とも珍しい出来事に遭遇した。
「あれー1人で登校?立川くんは?」
「おはよ」と声を掛けながら、百合子が茜に駆け寄った。
「いつもいつも一緒に登校するわけないじゃん」
「?・・あっ、てことはあの噂本当なの!?佐藤さんと立川くんが付き合いだしたってヤツ」
「そんな噂まで立ってるんだ・・」
確かにあの裏庭は位置こそ校内の隅にあるものの、茜たちの学校の教室は全て2階以上に位置しているため、半数以上の教室から見える場所にある。
昨日の2人の様子を見ていた人が茜以外にいたとしても何の不思議もない。
「さすがにあんな美人に告白されたら、あの硬派で有名な立川くんもOKしちゃったのかな?」
百合子はニヤニヤとした視線を茜に向けた。
当の本人はそんな視線に気付くこともなく「そうみたい」と返しただけだった。
「え!?・・ちょ、ちょっと茜どうしたのよ?」
「あの2人、ホントに付き合い出したみたいなんだよね〜」
精一杯の笑顔を作ったつもりだったが、友人歴の長い百合子には通じなかった。
「それ、本当なの?・・・・そんなはずはないと思うんだけど」
「え?」
「ううん、何でもない!・・それでアンタ暗いのね?」
精一杯の笑顔はあっさりと見破られ、茜は思わず百合子を見つめた。
そんな茜にさらに百合子は言葉を付け足した。
「寂しいんでしょう?立川くんに『彼女』ができて」
百合子は薄っすら微笑を浮かべて、試すような口調で茜に迫る。
百合子の言葉に動揺を隠せない茜には、そんな細かいところまで気にする余裕はなく、慌てて言葉を繋げた。
「ち、違うよ!ただ、幼馴染としてけじめをつけなきゃいけないなって思っただけで・・・」
「ふ〜ん・・・じゃあどうしてそんなに沈んでるのよ?」
すかさず百合子からさらに追求が続けられる。
「そ、それは・・ホラ、一応身近な存在だったわけだし、兄弟みたいなもんだから」
「だったら余計に変よ!本当の兄弟だったら、ブラコンでもない限りそんなに落ち込まないわよ」
百合子の的確すぎる指摘に茜は言葉に詰まった。言い返す言葉がない。
「〜〜〜〜っ!!・・・・・もうやめよ」
それ以上、考えたくない。
そう思ったあたしは一方的にその話を終わらせた。
百合子はまだ何か言いたそうだったけど、あたしは気づかないフリをした。
いつも通りに学校に行って、いつも通りに授業を受けて、いつも通りに友人たちと他愛無いおしゃべりを楽しんで――――――
いつも通りの日常が過ぎる。
悠太と直接顔を合わせなくなって、もう3日がたった。
こんなに長く悠太と口をきかないのは初めてだった。
中学のときも高校のときも、学校で会わないことはあったけど、1日中顔を合わせないということは今までにもあまりなかった。
数学のプリントはあれ以来進んでいなくて、提出期限は刻一刻と迫ってきていた。
悠太と会わなくても、時間は止まらない。
あたしの世界はそれでも時を刻んでいくのだという事実に安心と一握りの寂しさを覚えていた。
こうやって少しずつあたしと悠太の距離は離れていくんだろう。
そんな風に、あたしの中には不思議と冷静さと客観的な視点が残っていた。
それは意地っ張りなあたしのささやかな強がりだったのかもしれない。
今にも崩れてしまいそうな、ぐらついた気持ちを必死で支えるための最後の砦。
昼休み、昼食のための飲み物を買いに自販機へと向かっていた茜たち。
隣にいるのはいつも一緒にお昼を食べている仲のいいクラスメイトだ。
茜たちは日替わりでグループの人数分の飲み物をお互いに買っていた。
なぜなら自販機は生徒玄関の隣にあり、茜たちの教室からは遠いうえに、3階から1階まで降りなくてはならないからだ。
必然的に当番制になっていったのである。
やっと自販機に辿り着くことができたが、溢れんばかりの人である。
それは全校生徒が一斉に集まったのではないかと思えるほどだ。
茜たちの学校には自販機はここにしかないので、お昼時などは人だかりになる。
皆それぞれ飲みたい物は別々で、一つの自販機で全員分の飲み物は買えないので、茜たちは違う自販機に並び注文されていた飲み物を購入していく。
「え〜〜〜〜っ!?それ、ホント?」
突然突き抜けた女子の声。
周りのざわめきに埋もれてしまう程度のボリュームではあったが、茜の真横で叫ばれたため、茜にとっては耳に突き刺さるようだった。
思わずその会話に耳が向いてしまう。
「ホントだって!だって今朝、一緒に登校してたもん。立川先輩と佐藤先輩」
え――――――?
「ってことは、あの噂、ホントにホントだったんだぁ。ショックーーー」
「今までは幼馴染のあの人と一緒だったのにそれを差し置いてってことは、つまりはれっきとした彼女ってこと・・だよね」
「佐藤麻紀先輩かぁ・・・。そりゃ勝ち目ないよね・・・・」
「ホント、これならずっと幼馴染のあの人と一緒に登校してくれてた方がよかったよ」
「たしかに!あの人なら絶対、立川先輩に恋愛対象に見られてないもんね〜」
恋愛対象・・・・・。
そりゃ見られてるわけないじゃん。
あたしだって・・・あんなヤツ、恋愛対象になんて見てないんだから。
キャハハと笑いながら彼女たちは自分たちの教室へと帰っていった。
その場に取り残された茜は、他の自販機で飲み物を買い終えた友人に声をかけられるまで呆然としてしまった。
言いようのない不安は少しずつその大きさを増していく。
今までどんなに喧嘩したって、連絡もなしに先に行ってしまうなんてことなかったのに・・・。
あたしと違って、悠太は面倒見がいいヤツだから。
でも、そんな日がもう3日も続いてる・・・・。
確かに「朝、来なくていい」と茜は言った。
それでもその言葉が現実となった世界を茜はきちんと想像できていなかったのだ。
今まで、当然のように行われていた行動がなくなるということを理解しきれていなかった。
その先に想定できるであろう未来も、何一つ。
悠太と茜の間にある「幼馴染」という境界線。
それが見えずに全てを否定したのは自分だ。
でも、まさかそれがこれほどまでに茜と悠太の立ち位置を遠いものにしてしまうとは思いもしなかった。
この3日間、一度も朝来なかったのは佐藤さんと一緒に登校してたから?
そりゃ“彼女”なんだから当然だよね・・・・。
胸にぽっかりと穴が開いてしまったようだった。
自分にとって当たり前だった日常が次々と崩れ去るような感覚、自分の居場所だと無意識のうちに思い込んでいた場所を失ったのだ。
今始めて実際に身を持って体験した。
これが、幼馴染のあるべき姿なのかもしれない。
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