恋心を賭けて
「茜、起きなさい。朝よ」
シャッとカーテンを開ける音と共に聞こえてきた声。
それはいつも自分を起こしに来る人物のものとは違っていた。
茜を起こしたのは、茜の母親だった。
一般家庭においてそれは至極当然な風景であるのだが、普段悠太に起こされることの方が多い茜にとっては別である。
ベッドの上で起き上がり、視線を母親に向けて今日の茜の第一声が発せられた。
「・・悠太は?」
朝食を食べる時間の余裕があった茜はパジャマのままダイニングに向かった。
トーストを齧りながら、先ほどの質問の答えを聞く。
「悠くん用事あるんですって。先に行くからって、さっきカコちゃんが電話で」
カコちゃんというのは悠太の母親である。
本名は伽耶子というのだが、近所の人たちや親しい人たちからはカコちゃんというあだ名で呼ばれているのだ。
茜も、カコさんと呼んでいる。
おばさんという呼ばれ方が嫌いらしく、幼い頃からカコで統一されていたのだ。
「そんなこと、一言も言ってなかったのに・・・」
温かい紅茶を啜りながら小さく抗議の言葉を発した。
何となく気まずい雰囲気で別れたまま週末が終わってしまったので、今朝悠太が来なかったことが茜は余計気になっていたのだ。
しかし、茜の言葉を聞き逃さなかった母親は静かに茜に忠告した。
「あんまり悠くんばっかり当てにするのやめなさい、茜。悠くんだっていろいろ用事あるでしょ」
母親の忠告にも「はーい」と適当な返事をし、茜は朝食を食べることに専念した。
朝食を終えた後、身支度のための一連の作業を終えると、一般の高校生の登校時間になり、茜は家を出た。
「来てくれてありがとう、立川くん」
少女は嬉しそうに微笑んだ。
幼馴染を通じて悠太に渡された手紙にはただ一言『あの場所で待ってます』とだけ書かれていた。
正確な場所も時間も記されてはいなかった。
しかし、その手紙の差出人が示す『あの場所』に、受取人である悠太は心当たりがあった。
そして「たぶんあそこだろう」と見当をつけてやってきたのだ。
その場所に差出人である佐藤麻紀は確かにいた。
先に相手の存在に気づいたのは悠太だった。
そして静かに歩み寄った悠太に、先に声を発したのが先ほどの麻紀の言葉。
「あんなやり方で呼び出されたら断りようがないだろ」
「ふふ、それもそうね」
麻紀は悠太を見ながら笑った。
その微笑みはこれまでに数々の男子学生を魅了してきたものだ。
同い年とは思えないほどの美しい容姿に似つかわしい魅力的な笑み。
それを惜しげもなく目の前の悠太だけに向ける。
大抵の男子学生ならこの微笑み一つで彼女の虜になってしまうだろう。
そんな笑顔を見止めながら、でも冷静なままで悠太は一歩ずつ麻紀に近づいた。
「もし俺が手紙を見なくて、来なかったらどうするつもりだったわけ?」
「もちろん来るまで待つわ。明日も明後日も、その次も・・・。手紙が悠太くんに渡らないことも確率として予想していたから。でも、もし悠太くんに手紙が渡されたなら、絶対来てくれるって分かってた」
麻紀は可愛らしい笑顔を浮かべてそう言った。
麻紀は悠太の本質をしっかりと見つけている一人だ。
表面上の優しさだけではなく、その奥にある人としての温かさを。
だからこそ、麻紀が心配したのは悠太にちゃんと手紙が渡されるかどうかという一点だけだった。
その表情の裏ではいくつもの感情が渦を巻いていたが、それを少しも表に出すことなく、視線を外してただ微笑んだ。
「・・この場所、覚えててくれたんだね。それに時間もぴったり」
「・・・・・・」
ここは去年の秋、麻紀が悠太を呼び出した場所だった。もちろん告白をするために。
そのときの手紙には、しっかり場所と時間が記されていた。悠太はそのときの記憶を頼りに今日ここへ来たのだった。
あのとき、意を決しての麻紀の告白はあっけなく終わった。
「ごめん」という悠太の一言で。
さらに言葉を続けようとした麻紀は、悠太の視線で言葉が出てこなくなってしまった。
それは悠太の無言の圧力。
「これ以上何を言っても無駄だ」と思わせるほどの重苦しい空気。
何とかその視線に耐え、せめて自分を振る理由を知りたいと食い下がっても、悠太が言うのはただ「ごめん」だけだった。
「私あれからずっと考えてたの。どうしてだろうって。そうやって立川くんを見ていて、やっと分かった」
麻紀は視線を上げて、真っ直ぐ悠太を見つめた。
「好きなんでしょう?」
きっとこの学校中の誰も気づいていないだろう。おそらく本人でさえも。
でも自分は違う。
ずっと悠太を見つめてきた自分の瞳は真実を確信している。
そんな思いで、麻紀は悠太を見つめた。
痛いほどの視線を麻紀から送られ、悠太はNoともYesとも言わず、口を開いた。
「なぁ・・こんなやり方で手紙渡すのはズルイだろ」
「どうして?確かにお願いしたのは私だけど、行動に移したのは私じゃないわ。それは彼女の意思よ。彼女には手紙を渡さないっていう選択肢も用意されていたんだから」
正確な反論を返す麻紀を悠太も黙って見つめ返した。
その視線を見た者は数少ないだろう。去年のそれとはまた違う。
睨むのではなく、突き刺すような視線。
それほどの鋭さを伴った視線が麻紀を貫く。
最初は何とか耐えていたが、だんだんその鋭さを増していく悠太の視線に、いつしか麻紀は視線を外して下を向いていた。
「・・・・しょうがないじゃない。好きなんだもん」
どうしようもないくらい、悠太が好き。
どうしても手に入れたいと思ってしまったのだ。
残酷なまでの優しさを持つこの人を。
優しさだけでなく、その全てを手に入れたいと思ってしまったから。
今にも泣き出してしまいそうな声色で、それでも泣き出さないのは全て覚悟の上の行動だったと自分に言い聞かせているからだ。
たとえ悠太に何を言われても、「自分の気持ちはもう抑えきれない」と思ったからこそ、手紙を出したのだ。
そしてもう一つ・・・・。
さすがの悠太も女の子を泣かせるということに抵抗を覚える。
軽くため息をつき、麻紀から視線を外した。
「・・とにかく、俺の答えは去年と一緒だ」
そう言って立ち去ろうとした悠太の制服の裾を麻紀は咄嗟に掴んだ。
進行方向とは反対向きに力を加えられ、悠太は足を止めた。
正確には、止めさせられた。
後ろをチラッと振り返ると、麻紀の手がしっかりと自分の制服を摘んで離そうとしない。
その手を離させようと悠太が自分の手を伸ばしかけたとき、麻紀の声が発せられた。
「認めない。・・・私はあの子を認めない。だって、立川くんはここに来たじゃない」
瞳に一杯の涙を溜めて、震える声で小さく、でもはっきりとそう言った。
手紙を出したもう一つの理由は、そこにあった。
悠太の気持ちが見えた麻紀が次に気になったのは、相手の気持ちだった。
もし自分の入る隙がないような関係なのなら、すっぱりとこの恋を終わらせるつもりだったのだ。
「私だったら、立川くんに手紙を渡したりしない」
精一杯の気持ちを込めた言葉を、麻紀は悠太にぶつけた。
それが彼女の悠太への気持ちなのだという思いを乗せて。
もし悠太を好きなら、他の女からの手紙なんて渡すはずがない。
それが麻紀の答えだった。
「私の立川くんへの気持ちは誰にも負けない。絶対の自信を持って言えるわ。それなのに諦めることなんて・・・私には、できない」
悠太の制服の裾を握っていた麻紀の手にさらに力が込められる。
それはきっと麻紀の、今回の件への決意の深さを表しているのだろう。
麻紀には許せなかったのだ。
ただ安穏と幸せに包まれているだけの少女を。
自分が欲しくても手に入れられないものを持っているのに、そこに価値を見出そうとしない、その贅沢さを。
言い終えたまま下を向いてしまった麻紀の頭上から、低い声が発せられた。
「あのさぁ・・・人の気持ちなんて、他人に分かるもんなの?自分の気持ちが他の誰よりも大きいなんて、どうして分かる?」
悠太は麻紀の手を自分の制服からそっと外させた。
そして人を惹きつけて離さないその眼差しの真ん中に麻紀を置き、言葉を続けた。
そこには先ほどのような鋭さは見られない。
変わりにあるのは深く暗い、全てを引き込んでしまうような――闇。
「自分の基準で物を言ってるんなら・・・・・・」
麻紀を捕らえた視線はその距離を少しずつ縮めていく。
捕らわれた麻紀は動くことはおろか、視線を外すこともできなかった。
至近距離まで近づいたとき、悠太は自分の唇を麻紀の耳元に近づけて囁いた。
「俺も、アンタの気持ちより俺の気持ちの方が大きいって、絶対の自信を持って言えるぜ」
教室に向かう廊下の途中、何気なく目を向けた窓の外の世界。
茜は人気のないはずの景色から、何故か人の気配を感じた。
普段の茜なら足早に過ぎ去ってしまう廊下は、ゆとりを持って歩いていた茜には眩しい朝の日差しを感じさせ、茜の視線をあっさりと奪った。
そして見つけてしまった1組の男女の姿。
遠目でも間違えるはずがない、悠太の後ろ姿。
そしてもう1人は茜にこの憂鬱さをもたらした原因・佐藤麻紀だった。
“悠くん用事あるんですって”
脳裏に浮かんだのは今朝の母親の一言。
用事って・・・コレ・・・・?
2人がいたのは、教室に向かうには誰も通ることのない渡り廊下から続く裏庭。
渡り廊下の先にあるのは特別室ばかりで、朝から生徒が向かうとは思えない教室ばかりだ。
そんな場所だけに、2人がただ偶然会っただけとは到底思えなかった。
思わず立ち止まった茜が見つめる中、2人の顔が少しずつ近づいていく。
えっ――――――!?
咄嗟に目を背けて茜はその場にしゃがみ込んだ。
自分の見た光景に、心拍数が跳ね上がったのが分かる。
い、今・・キス・・・しようとしてた!?
好奇心よりも「見たくない」という気持ちが勝り、茜はしゃがみ込んだまま身動きが取れなくなってしまった。
もし今動いたら、決定的な瞬間を見てしまうのかもしれないという恐怖に無意識のうちに支配されていたのだ。
これが赤の他人だったなら、きっと興味津々で覗いていたであろうが、相手は悠太だ。
それを覗き見ることができるほどの太い神経を茜は持ち合わせていなかった。
な、何でっ!?
何で悠太がキスなんて――――――
そう思う一方で、自分の中の冷静な部分が状況を整理し、茜に一つの結論を促す。
・・・考えるまでもない。相手のことを「好き」だからだ。
一昨日の言葉からも、今までの悠太からも分かる。悠太はモテるけど、誠実なヤツだ。それはあたしが一番よく知ってる。・・・・ずっと一緒にいたんだもん。
いつかの悠太の言葉が蘇ってくる。
“誰でもいいってわけじゃないんだよ”
あのときは深く考えなかったけど・・・それってつまり、悠太には好きな人がいるってこと?
目の前の映像が茜に現実を尽き付ける。
そっか・・・・・。悠太にも彼女ができたんだ。
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