薄紅から送られた憂鬱







「今日はずいぶん早いじゃないの、茜!」


茜が教室に着くと、約半数ほどの生徒がすでに登校していた。
その中の1人である百合子が、この状況に似つかわしくない茜の存在に驚きの声を掛けた。


「机に茜の鞄があったからびっくりしたわよ。思わず昨日忘れて帰ったのかと思ったじゃない」
「んなわけないじゃん。たまたま早く目が覚めたの」


「へー・・・。今日は雨かしらね〜」と快晴の空を見上げながら口にする。
今日の降水確率は0に限りなく近い。
もちろん、百合子も本当に雨が降ると思って言っているわけではない。
ただ、そんな嫌味がつい出てきてしまうほど、この時間に茜がいることに驚いているだけだ。

そんな百合子の言葉に口をツンと募らせていた茜は、ふとあることを思い出して意味深な笑顔を浮かべた。


「・・・それはそうと、百合子チャン?」
「な、何よ。気持ち悪いわね」


急に声色が変わったうえにニヤニヤした笑みを携えている茜に対して、百合子は不信感を隠そうともせずに、眉間に皺を寄せながら答えた。


「昨日は一体誰とデートだったのかしら〜?」


ニヤリと笑った茜にほんの一瞬だけ驚いた百合子は、すぐさま「知りたい?」と余裕の表情を浮かべた。
そして百合子の新しい彼氏の話を聞いてうちに、あっという間に始業時間となり、また学校が一日始まった。






話し足りなかった2人は放課後に寄り道することを即決した。

向かう先はいつもの喫茶店『アモーレ』。
2人の帰り道の途中にある洒落た雰囲気のお店だ。
一見高そうに見えるため、気軽に店内に足を踏み入れられる高校生は少ないだろう。
しかし実際のところ、シックな雰囲気ではあるものの、メニューが高いという訳ではない。
むしろ一度ここを訪れた者なら、好んで来るようになるのではないかと思えるほど感じのいい店である。

茜も初めて百合子にこの店に連れて来られて以来、この店を気に入っていた。
百合子の話では、以前大学生の元彼に一度だけ連れて来てもらったらしい。
幸い百合子がその大学生と別れた後もここに幾度となく訪れているが、鉢合わせしたことはないので気軽に利用していた。



一通り百合子の新しい彼氏の話を聞き終え、2人は少し温くなった紅茶を口に運んでいた。


「そういえば、今日何であんなに早かったの?・・アンタがたまたま早く起きたなんて到底信じられないんだけど」


百合子から疑いの眼差しを軽く向けられ、茜は「やっぱりごまかせなかったか」と今朝のことを話し出した。


「3組の佐藤麻紀って知ってる?」
「佐藤麻紀って・・・あの告白してくる人を切りまくってるって有名な?」
「そう、それ。その佐藤さんがね、悠太に手紙を渡して欲しいって。・・その呼び出し」
「・・・それって、つまりは茜を介した立川くんへの告白ってこと!?」


声を上げて身を乗り出す百合子の様子に「やっぱり告白、だよね・・」と小さく呟きながら、ティーカップをそっと置いた。


「あの切りまくり女の本命は立川くんだったのかー。・・・ま、それなら切りまくってたのもちょっと頷けるわね。そりゃそこらへんの男子なんて目にも入んないでしょ」
「・・ねぇ、何でそんなに嬉しそうなの?」


やけにニヤニヤしながら言う百合子の様子が茜は気になった。
「え?ううん、そんなことはないけど・・」と首を横に振りながらも、やはりその表情はどこか楽しそうだ。


「ね、もし・・もしも、立川くんと佐藤さんが付き合い出したら、茜はどうするの?」


唐突な百合子の問いかけを茜はクエスチョンマークを浮かべながら受け取った。
しばしの沈黙の後、茜はゆっくりと口を開く。


「・・どうするのって、どうもしないよ。今まで通り幼馴染として接するだけ」
「今まで通り、ね・・・」
「?・・・何よ?」


意味深な百合子の物言いに茜はすぐさま疑問をぶつける。
すると百合子はティーカップに向けていた視線を茜に移し、茜を見据えながら一言呟いた。


「今まで通り、できるとホントに思ってる?」


先ほどとは打って変わって真面目な表情の百合子に、茜は咄嗟に言葉を返すことができなかった。
そんな茜の様子に気づいていながらも、百合子はさらに言葉を続けた。


「彼女ができるってことは、幼馴染っていう立場上、譲らなきゃいけないことがたくさん出てくるんじゃないの?」
「・・・どういうこと?」
「例えば・・朝、起こしてもらうことも当然なくなるだろうし、一緒に学校だって行けなくなるかもしれない。つまり、アンタは今まで“幼馴染”っていうつながりの上で立川くんの近くに、一番近いとこにいたのよ。それを“彼女”に明け渡さなきゃいけないってこと」


真っ直ぐに茜を見つめてくる百合子の瞳を見続けることができず、茜は思わず視線を逸らした。
今まで悠太に彼女ができたことがなかったため、茜は「悠太に彼女ができたとき」のことを真剣に考えたことがなかったのだ。
そのうえで、居心地のいい“幼馴染”という居場所を確保することができていた。


でももし、悠太に彼女ができたら・・・・・・。
あたしたちの“幼馴染”という関係はどうなるのだろう?

もし悠太に彼女ができたら・・・・・今まで通りではいられない・・?


予想以上に深く考え込んでいる茜の様子に、百合子は「あくまでも『もしも』の話よ」と付け足した。
「そうだよね」と返しながらも、一度生まれた不安は茜の中にしっかりと根付いていた。






「さて!今日こそは数学の課題に手を付け始めないと、後がヤバイよね」


家に帰り、夕食とお風呂を済ませた茜は机に向かった。
優等生とはいかないが、真面目の部類に入る茜は課題を前にして呟いた。

相変わらず悠太が茜の家に来る様子はない。
昨日悠太と言い合ったまま顔を合わせておらず、自分から「教えてくれるって言ったじゃん!」と催促するのも嫌だったので、茜は余裕を持って課題に取り組むことにしたのだった。


難しいって言ったって、提出期限にはまだ余裕があるし、これくらい自分でやれるわよ!



妙な意地を張って、課題と格闘をし始めて約1時間。
・・・・あっという間に茜の自信は0に近くなっていた。


こ、これは一体・・・・!?
できる問題からやろうと思っていたら、最後の問題まできちゃったじゃない!
どうしてこんなに意味不明なのよっ!?


茜は真っ白のプリントを前にして、初めて危機感のようなものを感じた。
プリント3枚という、茜にとっては膨大な量の問題。そのうえこの難しさでは手も足も出ない。


・・・これ、ホントに終わるのかな?


思わず茜は目の前が真っ暗になった。
しかし、いつまでも固まっていたところで問題が減るわけではない。
仕方なく鞄の中から参考書を取り出すと、パサッと何かが落ちた。

拾い上げると、それは今朝、佐藤麻紀に渡された悠太宛ての手紙だった。


そういえば、悠太に渡して欲しいって言われてたんだ・・。
すっかり忘れてた・・・・。


手紙を机の上に置きじっと見つめる。
何故か胸の中に言いようのない不安が押し寄せた。
それが一体何を意味するのかは分からないが、その感情があまり居心地のいいものではないということだけは、はっきりしていた。

一瞬、渡さなければいい・・という考えが頭の中を過ぎったが、すぐに茜は首をブンブンと横に振った。


ダメだ!・・百合子が変なこと言うから!!
これ以上おかしなことを考える前に、さっさと悠太に渡してしまおう!


昨日の言い合いの末の悠太への苛立ちもすっかり忘れ、勢いをつけて立ち上がった茜は、机の上の手紙を掴むと、隣の家へと向かった。



玄関まで来るとドアチャイムを鳴らすことなくドアを開け、勝手知ったるお隣さんの家に慣れた様子で上がりこんでいく。
キッチンにいる悠太のお父さん、お母さん、そして悠太の弟の庄平との談笑もほどほどに、茜は悠太の部屋へ向かった。

2つノックし、悠太が部屋にいることを確認すると茜はドアを開けた。


「悠太〜。今、平気?」


部屋の中を覗くと、ベッドの上で雑誌を読み耽っていた悠太と視線が合う。


「平気だけど・・・」
「よかった〜」
「・・あ、数学の課題だろ?」


手紙を渡そうと勢いづいていた茜が思わず「え?」と間の抜けた顔を浮かべると、悠太が「『え?』って、手にしっかり数学のプリント持ってるじゃん」と返した。
机の上の物をまとめて掴んだ茜の手には、しっかりと数学のプリントも握られていたのだ。


「いいぜ、見てやるよ」


そう言うと悠太はベッドから立ち上がり、部屋の真ん中に置いてあるテーブルへと移動した。
それにつられて、茜もテーブルの角を挟んで悠太の左側に座った。


「おまえの頭じゃ無理だっただろ?」
「そ、そんなことないもん!悠太が言ったんでしょ?手伝ってやるって。だから手伝わせてあげようと思って・・・」


手紙を渡すつもりで来たのだが、数学のプリントの存在を思い出した茜は、自分1人で3枚のプリントを片付ける自信もなく、ついつい売り言葉に買い言葉を返していた。

そっと悠太を窺い見る。
自分のあまりにも幼稚染みた言葉に、絶対呆れられていると思っていた茜とは反対に、悠太は顔を崩して笑っていた。


「さっすがだね〜茜チャンは。ハイハイ、じゃあ見させていただきましょうかね」


そう言って、不意にドキッとするほどの優しい笑顔を向けるから。
茜は思わずプリントに取り掛かるフリをして下を向いた。


ゆ、悠太ってあんな風に笑うんだっけ?
いつも一緒にいたはずなのに、初めて見たような気がする・・・。



問題1問1問に悠太の解説が加わり、茜は必死に頭をフル回転させた。
自分1人では全く歯が立たなかった問題が、今度は順調に解答欄を埋めていけた。

プリントが半分ほど終わったところで、いつのまにか2時間ほどたっていたため続きはまた明日ということになった。

タイミングよく悠太の母親が持ってきてくれた紅茶を飲みながら、2人で一息ついていた。

茜は「肝心の用事を済ませなければ」と軽く息を吸い込んでから、ピンクの手紙をテーブルの上に置いた。
当然、悠太がその呼び出し現場に隠れて潜んでいたことなど知らない茜は、昨日自分が受け取った手紙の結果を話し出した。


「結局、悠太絡みの呼び出しだったんだ・・・」
「へぇ・・」
「3組の佐藤麻紀さん。悠太にこれ渡してって頼まれて」


必要最低限のことだけ告げ、悠太の方に手紙を押しやった。
いくら仲のいい幼馴染とはいえ、今回みたいに手紙の渡し役になるということは初めてだった。
そのせいか、茜は何となく気まずい思いを抱えており、結果、視線は下げられたままだった。


「・・・それで、素直に俺のとこに持って来ちゃうんだな」


テーブルの上の手紙に手を伸ばさないまま、悠太がボソッと呟いた。
その言葉を受け取った茜は、勢いよく顔を上げたかと思うと、眉間に少々皺を寄せながら抗議の言葉を発した。


「だって、断れなかったんだもん。受け取っちゃった以上は渡さないとさ・・・」


そう言うあたしの言葉を、悠太は何故か不機嫌そうな表情で聞いていた。


・・・何で悠太が不機嫌になるのよ。
この場合、あたしの方がよっぽど迷惑かけられてると思うんですけど・・・。


心の中では好き放題言えるが、いくら茜でもそれを口に出せるような雰囲気ではなかった。
それほど、悠太の機嫌の悪さは増していたのだ。

悠太の怒り方ははっきり言って怖い。
別に怒鳴ったりしてくるわけではないが、無言の圧力がとてつもなく重いのだ。
きっとクラスの女子がこんな悠太を見たら、怖さのあまり泣き出してしまうんじゃないかと茜が思うほど。


これなら怒鳴り散らされた方がマシかもしれない・・・。


しかし、悠太が怒るのはかなり珍しい。
朝、あれほど手間のかかる茜だが、そのことで悠太に怒られた記憶はない。呆れはしているが・・・。
滅多に怒らないだけに、どこで怒りのスイッチが入ったのか、大抵茜には分からないのだ。


・・・今だって、どこらへんでスイッチが入っちゃったのよ。


茜が悶々と悠太の怒りのスイッチについて考えていると、悠太が不意に口を開いた。


「おまえさ・・・・」
「何よ・・?」


聞き返した茜に対し「いや、何でもない」と返したきり、悠太は黙ってしまった。