望むもの







「君になら、安心して任せられるな」


そう言って、中年の教師はにこやかな笑みを浮かべて悠太の肩に手をおいた。
教師の満足そうな声を聞き、悠太も「精一杯努めます」と礼儀正しく返した。


一礼をした後、職員室から出た悠太は、何かを吹っ切るように歩き出した。

窓の外は爽やかに晴れ渡っている。
太陽は一日ずつその輝きの強さを増しており、夏の訪れを少しずつ感じさせていた。








「あ〜期末がゆっくり近づいてくる〜」

午前の授業が終わった昼休み、クラスメイトの断末魔のような叫びに、茜もつられるように頷いた。

「この前、中間が終わったような気がするのにね〜…」
「まぁまぁ。ちゃんと授業さえ聞いてれば、赤点にはならないでしょ」

冷静に返す百合子に一同は「それはそうだけど…」と返したきり、言葉が続かなかった。
期末という響きに、肩を落とす茜に、百合子はまだ茜と悠太の誤解が解けていないことを感じとり、歯痒さを堪えた。


「茜!広瀬くんが呼んでるよ〜」


クラスメイトの声に反応して茜は教室の入り口の方へと向かっていった。
その後姿を百合子は静かに見つめた。
広瀬の元へとたどり着いた茜に広瀬が親しげに語りかけている。

何も知らない人から見れば、平穏なカップルに見えることだろう。
百合子自身、悠太のことがなければ心から二人を祝福していたと思う。
だが、悠太の愛情の深さを垣間見てしまった百合子は手放しに二人を祝福する気持ちにはなれなかった。
それでも迷いが生じてしまうのは、それだけ広瀬が温かい人なのだということが伝わってくるから。
広瀬が茜に向ける瞳には優しさが満ちている。
心から茜を大事に思っているのだろうということが伝わってくるようだった。
そんな二人を見ていると、「茜には悠太でないと」という思いが自分のエゴなのではないかという気持ちが生まれてしまう。
茜にとっての幸せを勝手に決めつけているのではないかという疑問。
それが百合子の中で葛藤として渦巻く。


結局、茜の幸せは茜が決めるしかないのだ―――。


自分も流されやすい性格だな、と自嘲気味た笑みを浮かべると、広瀬と別れてこちらに戻ってくる茜と視線が重なった。
その瞳が柔らかく微笑むから、百合子も微笑み返すことしかできなかった。






放課後、茜は帰り支度を素早く終えると、それぞれ帰路につく準備をしているクラスメイトと短い談笑をし、教室の入り口にある人影へと近づいた。


「お待たせ、広瀬」


そう言ってその人影に声をかけると、振り返った広瀬は茜の頭を軽くポンと撫でると「じゃ、帰るか」と微笑みかけた。


生徒玄関へと向かう途中、体育館脇を通るとランニングから帰ってきたらしいバスケ部とすれ違う。
その中の一人が親しげに広瀬に話しかけた。


「何だよ、広瀬。もう帰るの?」


「帰宅部なんでね」と広瀬が砕けた笑みを返す。
体操着の色は緑。それは3年生を示す色だった。


「広瀬、知り合い?」
「ああ、中学の時の先輩」


だから仲よさそうなのか、と一人納得しているとその先輩がにっこり微笑んだ。


「コイツ、結構上手かったんだぜ。俺ら3年を抑えてレギュラー掴んでたし」
「えぇ!?」
「もったいねーよなぁ。高校でも当然やると思ってたんだけど…」
「昔の話っすよ。今じゃ全然」


広瀬が苦笑いしながら謙遜する。
すると先輩は思いついたような表情を浮かべた。


「ちょうどいいや。今日、監督休みでフリー練習なんだよな。ちょっとやってかね?」


広瀬は先輩の誘いに少し困った様子を見せた。


「いやいや、現役の先輩相手に無理でしょ」
「中学時代、あれだけ上手かったんだ。1on1くらいならいけるだろ。…彼女もバスケしてるとこ、見たいでしょ?」


急に振られて返事に困る。
でも、確かにちょっと見てみたい…かも。
どうする?と目線で投げかけてみる。


「…じゃあ、ちょっとだけ」


そう言って、広瀬は先輩と一緒に体育館に向かう。
その背中を追って茜も体育館へ足を踏み入れた。

体育館の半面はバレー部が占有しており、バスケ部は入り口から奥側で練習しているようだ。
部活動に入っていない茜は、そういった部活情勢には疎い。
練習中のバレー部の横を通ってバスケ部の陣地へと進む。
広瀬は上着を脱いで、バスケ部メンバーと話していた。


「茜。放課後の体育館に来るなんて珍しいな」


クラスメイトのバスケ部員が話しかけてくる。


「うん、広瀬がちょっとやってくみたいで」
「へぇ〜!だからあそこにいるのか。上手いの?」
「…中学時代は上手かったらしいよ」
「中学って…ブランクあるだろ〜。佐々木先輩、レギュラーだぜ?」


あの先輩は佐々木というのか。
高校でみっちりバスケをやってきて、しかもレギュラーを勝ち取っているような人を相手に試合なんて大丈夫なんだろうか…そんな疑問が過る。

そんなことを考えているうちに準備は終わったようで、佐々木先輩と広瀬が半面コートのさらに半分のスペースで1on1を始める。


「持ち時間は3分。先にゴール決めた方の勝ちな。俺から行くぜ」


そう言うと佐々木先輩はセンターラインに立ち、ドリブルし始めた。
広瀬も腰を落として、相手との距離を保ちながらボールだけを捉えている。
佐々木は仕掛けながらも、広瀬に阻まれて抜ききれない。
お互い一歩も譲らず、攻防を繰り返し、体育館にはキュッキュッというシューズの音が響く。


ピ―――――――――――


ホイッスルの音が鳴り響く。
どうやら3分立ってしまったようだ。
いつの間にか鞄を持つ手に力が入っていたようで、手には跡がついていた。


「へぇ〜すごいな、アイツ。佐々木先輩に抜かせないなんて。俺ら2年じゃすぐ抜かれちまうんだけどな」


クラスメイトの言葉に、茜は新鮮な驚きを感じた。
すごいな広瀬、と素直に思った。


「じゃ、次広瀬の番な」


攻守交代で、今度は広瀬がセンターラインに立った。
ボールをゆっくり見て、ドリブルを始める。
その視線が相手の表情を捉える。
気迫のこもった視線に一瞬佐々木がたじろいだように見えた。
相手のその一瞬の隙を広瀬は見逃さず、茜が気づいた時には広瀬は佐々木と並んでいた。
半歩出遅れた佐々木を交わすようにゴールへと走る広瀬。
佐々木もすぐさまディフェンスを取るが、時遅く広瀬は華麗にレイアップシュートを決めた。


「げ、すげー。あんなにあっさり佐々木先輩抜くやつ初めて見たよ。ホントに中学以来やってないのか?」


バスケ部員の問いかけとも独り言とも取れる言葉を余所に、茜はただ広瀬を見つめた。
その視線が交わると広瀬はいつもの人懐っこい笑顔を浮かべた。

佐々木先輩は「いつでも歓迎するから、入部も考えてみろよ」と言って、二人を送り出した。


生徒玄関から出て二人で帰路につく。


「あ〜久しぶりにバスケしたな」


広瀬が伸びをしながら、満足そうにつぶやいた。


「ホントにすごかったね!バスケ部の人もびっくりしてたよ、ホントにブランクあるのかって」


茜は笑いながら言った。
バスケのことはあまり詳しくないけれど、茜には十分すごく見えた。
それにバスケ部の人がそういうのだから、確かに実力はあるのだろう。


「ホントだよ」と苦笑いしながら広瀬が答える。


「本気で入部も考えてみたら?今からならまだ1年以上あるんだし…」


そういって広瀬を見上げると、少し寂しそうな笑顔を浮かべた。


「中学3年の時、バスケ推薦の話もあったんだ。…舞い上がって、バスケ漬けの生活してたら、膝壊しちゃって…」


茜から視線を外して俯く広瀬。
思わず茜は広瀬の腕をつかんだ。


「ごめん!事情も知らずに無神経なこと言って…」


広瀬の正面に立ち、まっすぐに広瀬を見つめる。


「膝、大丈夫?」


膝を壊した人が、遊びとはいえバスケをやっても支障ないものなのだろうか?
そんな心配そうな表情を浮かべた茜に、広瀬はいつもの笑顔を見せる。


「日常生活には何の支障もないし、あの程度のバスケなら全然。選手生命的には致命的だけど、それ以外は大丈夫だよ」


茜の頭にポンと手を乗せながら告げる。


「そっか、それならよかった…」


茜はホッと胸を撫で下ろす。
そんな茜の様子に、自分のことを本当に心配してくれていたんだな、と温かい気持ちが満ちてくるのを感じた。


「…大事なものはいつだって簡単にこの手からすり抜けていく。だから俺、決めたんだ。欲しいものは全力で取りに行くって」


そう言って、広瀬は茜の手をそっと握る。
握られた手を見て、茜は照れたように頬を赤くした。
そんな様子すら可愛らしくて、広瀬は繋いだ手に力を込めた。


「さ、帰ろうか」


手を繋いだまま二人は再び歩き出した。