届かない願い







「まだ2年生だからって、のんびり構えているとあっという間に受験になるぞ」


茜のクラスの担任はホームルームの時間にそう言いながら進路希望の調査用紙を配り始めた。
提出期限は1週間と言い渡されたその紙には、第一希望から第三希望までを書く欄が設けられている。


「まずは、自分が将来どんな分野に進みたいかから考えてみろ。もちろん行きたい大学が決まっている者はそれでいい。進学メインで話しているが、就職を希望する者がいればそれを書くように」


そう言うと担任は教室から出ていき、放課後が始まった。


茜は調査用紙にもう一度目を向けた。
よく似た紙を見たことがある。
中学生の時にもらった高校の進路希望調査だ。
あの時はただ漠然と、自分の学力と見合う高校を書いた。
それでいいと思っていた。

だが、今回は意味が違う。
大学進学を目指す者、専門学校を目指す者、就職を目指す者…様々な進路がある。
そしてこの選択は、その後の人生を大きく左右するであろうことは明白だ。
自分はどんな将来を思い描くのだろうか?
まだその一片さえ見えていない。


「百合子は決まってる?」


一つ席を挟んで隣の百合子に茜は問いかけた。


「ん〜、まあ漠然と分野くらいはね。経済とか経営とか、そっち系に進みたいのよ」
「そうなんだ!?」
「茜は?」
「あたしはまだ何も…」


そう問いかけられても、返す言葉が見つからなかった。
もしかして、将来のことなんて何も考えていないのは自分くらいなのではないかと一抹の不安が過る。


「まぁまだ2年の夏前だし、オープンキャンパスとかも行きながらゆっくり考えればいいんじゃない?まだ焦るような時期でもないでしょ」
「そうかもしれないけど…。ねぇ、きっかけは?何で経営とかに進みたいって思ったの?」
「え?何よ急に…」
「いや、参考までに聞きたいなと思って。どうやって自分のなりたいものを見つけたのか」
「…そんな立派なものじゃないのよ。ただ、少しでも近づきたいって思っただけ」


そういう百合子の横顔が、ふと知らない人のように大人びて見えた気がした。


「…誰に?」


そう問いかけると、百合子はみるみる顔を真っ赤に染めだした。
あまりに珍しい光景にまじまじと百合子の顔を見つめていると、ぷいっと顔を背けられてしまった。


「…よ、世の中の大人によ!」
「な、何怒ってんのよ?」


「じゃ、私は帰るから!」と立ち上がると、百合子はスタスタと教室を後にした。
何だったんだろう…?と疑問には思ったが、答えが出るはずもなく、茜も帰路につくことにした。


生徒玄関へ向かう途中、丁度広瀬と出くわした。
そのまま二人で並んで歩いていると、茜は視線の先に映った小さな姿に目を奪われた。
下校する生徒の流れに逆らうようにこちらへ歩いてくる悠太だ。
おそらく生徒会があるために生徒玄関ではなく、別校舎へと向かっているのだろう。
特別避けていたわけではないが、こうして悠太の姿を目の当たりにするのはひどく久しぶりに思え、思わず緊張が走る。
悠太の方は茜達の姿に気づいていない様子で一歩ずつ歩みを進めてくる。
その緊張感を感じ取った広瀬は静かに茜の手を握った。
まるで「大丈夫だ」と言い聞かせるように、茜の手を大きな温もりで包み込む。
少しずつ近づいてくる悠太の姿に目を逸らすこともできず、茜はただじっと見つめていた。


その切れ長の瞳がゆっくりと動き、茜の瞳と交わり合う―――。


茜は悠太のまっすぐな瞳に見つめられ、呼吸さえ飲まれてしまうような息苦しさを覚えた。
すっかり歩みの止まってしまった茜とは対照的に、悠太は歩みを止めることなく茜達との距離を少しずつ詰めてくる。
何て声をかければいいのだろう…近づく距離に、焦りに似た感情を膨らませていると、悠太は静かに視線を外し、二人の横を何も言わずに通り過ぎた。
後ろから聞こえる悠太の足音が遠ざかっていく。
振り返ると、ちょうど悠太が廊下の角を曲がって別校舎へと入って行くところだった。


今まで学校で顔を合わせたときは、必ず何かしら声を掛け合っていた。何も言わずに通り過ぎていった悠太に大きな喪失感が押し寄せてくる。
そして、話しかけてくれるだろうと期待していた自分に気づかされた。
もう自分たちの関係は変わってしまったのだということを嫌でも実感させられる。


「行くか」


静かに呟いた広瀬に促されるように茜は視線を広瀬に戻し、「うん」と無理やり笑顔を浮かべた。




「茜のクラスも進路希望の紙、配られた?」
「うん。広瀬のクラスも?」
「まあ、2年のクラスは全部配られただろうな。…何か決まってる?」
「ううん、まだ何も…」


百合子との会話と同じ流れが再び繰り返された。
その度にズンと重苦しさが圧し掛かるような気分になる。


「俺も具体的なことは決まってないんだよな。だから、茜が行きたいとこ決まったら、俺合わせるよ。どこの大学でも興味ある学部の一つや二つあるだろうし」
「え?」


思いもしない広瀬の発案に、茜は思わず広瀬の顔を見返した。


「どうせ今から決めるなら、合わせればいいじゃん。俺はこれからも茜の傍にいたいんだよ」


屈託なくそう言う広瀬に、嬉しさよりも戸惑いが先に出た。


そんな簡単に?
普通、進路といえばこれから先の人生を左右する大きな選択だ。
それを、付き合っているからというだけで選択の幅を狭めさせてもいいのだろうか?
ましてや、広瀬は自分より上の学力。
自分に合わせるということは、広瀬にランクを下げさせることになる…。
しかし、そんな風に考えてしまうのは、自分が広瀬を心から好きになれていないからかもしれないと、自己嫌悪のような感情も湧いてくる。
申し訳なさと迷いとが重なって、茜は「ありがと」とだけ答えた。






放課後の校舎。
下校時刻も過ぎ、静まり返っている廊下を悠太は自分の教室へと向かって歩いていた。
生徒会の仕事も終わり、下校するときになって校長から渡された資料を机に置き忘れたことに気が付いたからだ。
教室について自分の席を確認すると、目当ての資料があった。
それを手に取り鞄の中にしまう。
もう心は決まった。迷いは…ない。


「よう、幼馴染」


不意に声が聞こえ、反射的に振り返る。
そこにいたのは、茜を家まで送り届けた後、再び学校へと戻った広瀬だった。


「何だ…。お前か」
「生徒会は大変だな、こんな時間まで奉仕作業か」
「…何だよ、わざわざ嫌味を言いに来たのかよ」


予期せぬ来客に面食らいつつ、相手の真意を測りかねる悠太。
一方の広瀬は笑みもなければ色もない表情をしている。
何だ?と相手の様子を窺っていると、広瀬は静かに口を開いた。


「茜はさ、俺の前だとよく笑うんだ…」


突拍子のない、しかも惚気とも聞こえる話に反吐が出そうになる。
それを堪えて「そうか」と短く返す。


「俺の前では無理をする。弱い部分も曝け出してほしいのに、笑顔を見せるんだ。たとえ心の中で泣いていたとしても…。だから、今日みたいなのはやめてほしい。あんな、蛇の生殺しみたいな…」


今日の放課後にすれ違った時のことを言っているのだろう。
あれが蛇の生殺し?
生殺しにされているのはどっちだと言うのか。


嫌でも思い出される放課後の二人。
重なり合った手。そっと広瀬に身を寄せる茜。
――――茜が選んだ現在。
そこに自分の入る余地はない。


「何が言いたいんだよ、お前」
「茜はもうお前のことを忘れたいんだよ。変に動揺させないでくれ!」
「…お前に、何が分かるんだ…。俺たちの、何が分かるって言うんだ!」


堪えきれない感情がそのまま言葉に出てしまったことに、悠太自身も驚いた。
それほどまでに余裕がない自分に。
普段物静かなイメージのある悠太の怒声に広瀬が一瞬たじろいだのが分かった。


「悪い…。心配しなくても、そんな杞憂はもうすぐ終わる…」
「…どういう意味だ?」
「そのままの意味だ」


そう言って悠太は静かに広瀬の横を通り過ぎる。


「おい、待てよ!」


広瀬の問いに答えることなく、悠太は教室を去った。






夕食が終わり、茜は自分の部屋で机に向かい、今日配られた調査用紙とにらめっこをしていた。

将来…か。
そういえば昔は保育園の先生になりたいって言ってたっけ?
でも、悠太の弟の庄平が生まれて、一緒に遊んでいるときに全然上手にあやせなくって、悠太に「お前じゃ保育園の先生なんて無理だな〜」なんて言われて大ゲンカしたんだ。
懐かしさに思わず笑みが浮かぶ。
悠太は、何になりたいって言ってたんだろう?
きっと悠太なら、こんな進路希望調査も迷うことなく書いちゃうんだろうな。
悠太は将来何になるんだろう?
そして、その隣には誰がいるんだろう?
佐藤さん…なのかな。


勝手に想像して、勝手に落ち込んで…懲りないなぁ。
カーテンを閉めようと窓に近づくと、悠太の部屋の暗い窓が見える。
1階にいるのか、まだ帰宅すらしていないのか、茜には知る術もない。
いつのまに、こんなに距離ができてしまったんだろう。
今日の放課後の悠太がフラッシュバックする。
確かに瞳が合ったのに、静かにすれ違った悠太。
彼女に誤解されないように、距離をとりたいってことなのだろうか?
悠太が教室に誘いに来てくれたあの日、あたしが勇気を持てていたら、一緒に帰っていたら、悠太は何を話してくれていたのだろう?
それをちゃんと聞いていれば、今、もう少し悠太の近いところにいられたのだろうか?
後悔の波が押し寄せてくるが、今更もう遅い。
あの時あたしは勇気が持てず、悠太を突き放したのだから。
先に遠ざけたのは自分だ。
全ては自業自得なんだ―――――。
茜はそっとカーテンを閉めた。