躊躇いの中、光を信じて







茜と広瀬が付き合いだして一週間。
付き合いだしたからといって、学校生活での2人の過ごし方に大きな変化はなかった。
もともと友人関係を大切にする広瀬は校内での生活を茜優先にするということはしなかった。本音では、ただ単純に茜のペースに合わせることを意識していたという部分も大きかったが、それを茜に悟らせるような素振りはまるでなかった。
そのおかげで、茜は「彼氏」という存在を悠太はおろか、百合子にも言えないでいた。
言わなければいけないという思いとは裏腹に、心のどこかで躊躇いもあった。
言ってしまえば、また一つ悠太との距離は遠くなる。
そうなることを望んで出した結論ではあったが、それでもまだ胸に残る深い傷はそう簡単に癒えてはくれないようだった。
少しずつ、確実に変わっていく互いの関係はひどく脆いものに思え、些細な変化の積み重ねが大きな壁を作り上げていく・・・そして決定付けられる幼馴染の距離。
それを突きつけられたとき、果たして自分は受け入れることができるのだろうか。
その不安は今も変わらず茜の中に根付いている。


それでも、いつかは言わなければいけない。


茜は意を決して、百合子の机へと近づいた。
放課後の教室は生徒たちの賑やかな喧騒で包まれており、その中で百合子も帰宅の準備を進めていた。


「百合子。今日、時間ある・・?」
「あぁ、茜。ごめん、今日はちょっと・・・」


百合子は言葉尻を濁しながら、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
決死の覚悟の誘いがあっさり断られ、少し拍子抜けしながらも心のどこかで安堵の気持ちが生まれた。
そんな茜の様子を敏感に感じ取った百合子は、いつもと少し様子が違う茜に言葉を続けた。


「何か話でもあった?」
「そんなんじゃないけど・・・」


そう言いかけたが、ここでごまかしてもいつかは打ち明けなければいけないのだと思い直し、茜は百合子を真っ直ぐ見つめ返した。


「ううん。話、あるの・・・」


静かに呟いた茜に百合子も真剣な表情を返した。いつになく落ち着き払った茜の様子から、何か大事な話があるのだろうと察しをつけるのは簡単だった。
明日は土曜日ということもあり、2人は10時に喫茶店であるアモーレで落ち合う約束をし、その日はそのまま帰路についた。




翌日、余裕を持ってアモーレに着いた茜だったが、店内に百合子の姿を見つけ、歩調を少し速めて近づいた。


「百合子、ずいぶん早かったのね」


茜は百合子の背後から回り込んで相向かいに座った。
百合子の前には既にティーカップがあり、その中身は半分ほどに減っていた。


「あーんな深刻そうな顔されちゃ誰だって気になるわよ!」


わざとらしくそう言うと、百合子は茜にメニューを手渡し、注文を促した。
ウェイターにカフェオレを頼み終えると、百合子は早速身を乗り出した。


「で、話って何なのよ?」


話を聞く体勢を万全に整えた百合子の前で、茜はいざとなると多少しり込みしてしまった。
広瀬とのことを話したら、百合子は何て言うのだろうか?
でも、百合子に悠太の話なんてしたことなかったんだし、案外祝福してくれたりするのだろうか、等と想像は膨らむばかりだった。
難しい顔をしたまま口を真一文字に閉じた茜に、百合子はじれったそうに口を開いた。


「も〜!ここまで来て出し惜しみしない!さっさと言う!!」


百合子の勢いに押され、茜も意を決して言葉を発した。


「・・彼氏、できた」


ともすれば聞き逃してしまいそうなほど小さな声だったが、幸い店内のほかの客からは少し離れた席にいるため、百合子の耳に茜の言葉はしっかり届いたのだった。


「か・・れし・・?って、あの『彼氏』?」


百合子の言葉に茜は小さく頷いた。
すると百合子は満面の笑みを浮かべて、まるで自分のことのように喜んだ。
その様子に、茜は友情の温かみを肌で感じ思わず微笑み返していた。


「やったじゃない!一時はどうなることかと心配したのよ」
「え!?百合子、気づいてたの?」
「当ったり前でしょ。あんたよりも、恋愛経験は遥かに豊富なんだから!いつ付き合うことになったの?」
「ええっと・・一週間くらい前、かな?」
「あら、そんなに前なの?てっきり昨日、一昨日くらいの話かと思ったわ。・・・あれ?でもその割に、茜、1人で登校してなかった?」
「そりゃ、いくら付き合ったからって朝まで一緒に登校したりしないよー。わざわざ迎えに来てもらうのも何か変だし・・」
「・・え?」


百合子の表情が途端に険しくなる。
つい先ほどまで流れていた和やかな雰囲気からは想像もできないほど、難しい表情で茜を見つめる。
茜はその迫力に思わず「な、何よ?」と問い返した。


「待って。茜、誰の話してるの?」
「誰って・・だから、彼氏。ホラ、百合子、中学一緒だったんでしょ?」
「中学って・・・」


考え込むような表情になった後すぐ、百合子は思いついたように口を開いた。


「広瀬和之!?」


視界の端で、店内の客が一斉に自分たちへと視線を向けたのが分かった。
それほど、百合子の声は店内に響き渡っていたのだ。
百合子にしてみれば、あまりの驚きに声の大きさなど気にしていられなかったのだろう。


「声大きいって〜・・」
「何で!?何でそんなことになってるの?」
「何でって・・・まあ、流れで・・・」
「流れって・・・そもそも何で広瀬と茜が知り合いなのよ?前から聞こう聞こうと思ってたのよね」


百合子の追及から逃れられる気もせず、茜は広瀬と出会い、今日までにあったことを百合子に話した。
悠太と麻紀のことには触れずに。


「・・・つまり、押し切られて付き合いだしたってわけなのね」
「それもあるけど、でも広瀬のお陰で、あたし随分救われたんだ」
「救われたって・・?」
「前にさ、百合子に言われたじゃん。いつまでも幼馴染でいられるわけじゃないって。そしたら本当にそうなって・・・」


静かに瞳を閉じると、茜の脳裏には最後に学校の廊下で見た悠太の刺すような瞳が浮かんできた。
もう少し自分が強かったら、あの時に笑顔で悠太と悠太の彼女である麻紀のことを祝福できたのかもしれない。・・・でも実際は、そんなに強くはなかったわけで。
「ちょっと待ってよ!ミスと立川くんのはただの・・・」そう言いかけた百合子の言葉に被せるように、茜は首を振って発した。


「いつかは・・離れなきゃいけないんだよ、幼馴染なんて・・・。だからあたしも自分のこと、もっとちゃんと考えようと思って」
「・・・それで広瀬と付き合うことにしたって言うの?」


百合子の痛すぎる視線を全身で感じながら、それでも茜は小さく頷いた。
それを見届けると、百合子は静かに瞳を閉じ、深いため息を吐いた。


「茜。確かにこういうことは周りがしゃしゃり出ることじゃないんだけど、でも一つだけ。茜は広瀬のことが好きなの?辛いから、苦しいから広瀬に逃げただけなんじゃないの?」


ずっしりと重みを持った言葉だった。
心の奥をえぐられるような感覚。忘れたくても忘れさせてはくれない、鈍い痛み。


「茜、自分の気持ちから逃げてちゃ、幸せなんて手に入らないんだよ」
「でも他にどうしたらいいか分かんなかった!百合子の言いたいこと、分かるけど、でもどうしたってあきらめなきゃいけない気持ちだってあるんだよ」
「バカ!それはやること全部やった人が言う言葉だよ。茜はまだ何もやってないじゃない!本当に好きな人、いるでしょう?何でちゃんとぶつからないのよ!」
「だって、ぶつかって失うものが大きすぎるもの・・・」


重苦しい沈黙が訪れた。
お互いに相手の言いたいことを理解はしているが、受け入れられないのだ。
誰だって、自分の見たもの全てが真実であると思い込み、そのフィルターを取り除いた視野が持てなくなってしまう。
それが、自分にとって大きなものであればあるほど。

百合子は残りの紅茶を飲み干すと静かに席を立った。


「忘れないで、あたしはいつだって茜の味方よ。でも、一度ちゃんと冷静になってほしいの。大切のものを見失わないために」


百合子の言いたいことはよく分かる。
けれどそれは、失うものが何もない場合だけだ。
これ以上何一つ失いたくない茜にとって、百合子の言葉はただすり抜けていくだけだった。




「今日、何か元気ない?」


茜の顔を覗き込むようにして広瀬が問いかけた。
休日ということもあり、2人は駅前で映画を見たり、ウィンドウショッピングに繰り出したりしていた。
しかし、茜は昨日の百合子の言葉が心の隅に引っ掛かって、自分でも気づかないうちに今日数度目のため息を吐いていた。
さすがに気になった広瀬は控えめに問いかけたのだった。


「え?ううん、そんなことないよ」
「そうか?・・じゃ、ちょっと休憩でもするか。歩きっぱなしだったしちょっと疲れたろ」


そう言うと広瀬は視界の隅に映ったコーヒーチェーン店へと茜を誘った。
2人分の飲み物を受け取り、店の奥側の空いているテーブルに腰を据える。
さりげなくされるエスコートは、「恋人」という関係を意識させられ、くすぐったい反面、どこか罪悪感めいた感情が見え隠れする。
それでも居心地がいいと感じてしまうのは、自分の弱さなのだろう。


「茜、砂糖とかミルクは?」
「あ・・ミルク、欲しいかな」
「じゃ、俺取ってきてやるよ」


そう言うと広瀬は席を立ち、カウンターの方へと歩いていった。
その後姿を茜はぼんやりと見つめながら、まるで夢の中にいるような感覚に包まれていた。


―――茜は広瀬のことが好きなの?辛いから、苦しいから広瀬に逃げただけなんじゃないの?


昨日の百合子の言葉が何度も蘇る。
その通りだった。最初から分かっていた。
「それでいい」と言ってくれた広瀬に、自分は甘えてしまったのだ。
それが、どんなに残酷なことなのか考えることもせず・・・。

広瀬は「2人の利害が一致するから」と言っていたけど、冷静になってみれば、それは広瀬が茜に余計な気を使わせないために敢えて言った言葉なのではないかと思えてくる。
広瀬が相手のことを深く思いやるタイプの人間だということは、出会ってからのこの数日間でさえ、十分伝わっていた。
それほど心優しい人に、今自分が取っている行動はひどく酷薄で、独りよがりなのではないだろうか。
そう思うと、茜の口からは重苦しいため息が漏れる。


「茜・・」


いつの間にか、茜のすぐ隣に立っていた広瀬は心配そうに茜を見つめいていた。


「やっぱり、何か今日変だ。・・どうした?」


問いかけながら、広瀬は左手でそっと茜の頭を撫でる。
至近距離から真剣な眼差しで、そんなに優しく問いかけられたら、誤魔化すなんて考えすら浮かんでこなくて。
茜は手元のカフェラテの入ったカップを弄りながら、重く口を開いた。


「広瀬は優しいね・・。あたし、広瀬にすごく酷いことしてるんじゃないかな」
「・・・」
「あたし、自分のことしか考えてない。広瀬のこと全然考えてなかった。ただ自分が楽になりたかった」


広瀬が自分のことをどう想っているかなど、分かるはずがない。
もしかしたら、本当にただの気まぐれで自分と付き合うことを選んだのかもしれない。
それでも、広瀬を好きなわけではない自分が広瀬と付き合うのは筋違いというものだ。
もしかしたら、これから広瀬には大切な出会いがあるかもしれない、そのチャンスを奪ってさえいるかもしれない。
古臭い考えかもしれないけれど、恋愛に駆け引きを持ち込めるほど器用ではないことは自分が一番よく分かっている。


「きっと、これからもあたしは悠太のことを心の奥に引っ掛けたまま、広瀬の隣で笑ってる。そんなに簡単に忘れられるような気持ちじゃないの。いつ忘れられるのか、ただの幼馴染に戻れるのかなんて、あたしにも分からない。もしかしたら、忘れられる日なんて来ないのかもしれない・・・。そしたら、あたしはずっと広瀬を騙し続けることになるのかな?・・・そんなの辛い。奇麗事に聞こえるかもしれないけど、あたし、広瀬に嘘はつきたくない」


言い終えると、一瞬の沈黙が訪れた。
店内のざわめきさえ掻き消され、自分の胸の痛みだけで一杯になる。
長い、重い沈黙。実際にはたった一瞬の出来事だが、茜にとってスローモーションのように流れる風景。
その中で、茜の頭を撫でていた広瀬の左手が、そっと離された。
胸に小さな痛みを感じたけれど、そんなものを感じること自体、見当外れなのだ。
広瀬は茜から一歩遠ざかると、向かいの席に座った。


「・・・終わり?」
「え・・・」
「茜の自己主張、終わり?・・・最初にも言ったけど、茜がそんなに考え込むことないんだ。俺はドライな人間だから、割り切って茜と付き合えるよ?たとえ、心の中で他の誰かのことを考えていたって、責めないし、嘘吐きだなんて思わない」
「だけど・・・」
「茜、俺の言葉、覚えてる?『俺が支える』――そう言ったんだ。今、茜の心を幼馴染くんが占めていたとしても、そんなの俺がすぐに変えてやるさ」


そう言って、広瀬はいつもの人懐こい笑顔を茜に向けた。温かすぎるその存在。
気づけば茜の瞳から次々と涙が溢れ、あっという間に視界はぼやけ出す。
涙を拭おうとした茜の手より先に、広瀬の大きな手のひらで頬ごと覆われ、そっと涙が拭われていく。


「俺を信じろよ」―――小さく紡がれた言葉だった。




どうして、こんなにも優しい人が自分の傍にいてくれるのだろうか。
もし広瀬と恋愛ができたら、きっと幸せすぎて身動きも取れなくなってしまうだろう。
そんな未来が来ると信じていいのだろうか。信じさせてくれるのだろうか。


それならば、信じ続けよう。いつか、必ず広瀬を好きになるって。