交錯の行方







夕日が辺りを赤く染め上げる中、住宅街の一角で1組の男女が対目し、そこからは死角となる位置に2人の男がいた。
4人それぞれが各々の想いを胸に秘めた状態で。


「な、何でそうなるの?」


「付き合ってみない?」という広瀬の誘いにただ驚きを隠せず、茜は何とかそれだけ返した。


「だってさ、俺たちの利害関係が一致すると思わない?茜は今隣に誰かの存在が必要だろうし、俺は俺で彼女いた方が楽しいし」


そう広瀬が理由付けすると、茜は明らかに険しい表情を浮かべた。
けれど、それに臆することなく広瀬は余裕すら窺わせる笑みを携えていた。
このくらい、想定内だと言わんばかりに。


「茜は難しく考えすぎなんだよ。世の中には何となく始まるカップルなんてざらにいる。甘えたいなら甘えればいいんだ。俺がいいって言ってるんだから、素直にさ」
「でも・・・」
「俺のこと、一緒にいるのが耐えられないほど嫌いだってんなら話は別だけどさ」
「そんなことないよ!広瀬はすごくいい奴だなって思ってる。一緒にいて、いい意味で楽だし、楽しいって思えるし・・」


広瀬の存在にどれだけ救われたか分からない、それほど茜にとって広瀬は大きな存在になっていた。
言葉尻を濁らせながら俯いた茜に、広瀬は口の端を俄かに綻ばせた。


「じゃあ、問題ないじゃん!それじゃ、今から彼氏彼女ってことで」
「え!?ちょ、ちょっと!」
「いいから、騙されたと思って付き合ってみろって」
「そんな無茶な・・・」
「無茶でもいいじゃん。俺は茜といると楽しいから、そう思う自分に素直になってるだけ」


まっすぐに見つめながらそういう広瀬から、茜は目が離せなかった。
そこに迷いは一切見られず、自分に素直にと言い切る広瀬が少し羨ましかった。
自分に素直になったとき、それを受け入れてくれる相手がいたらどんなに幸せだろうと思う一方で、今の自分にその幸せは起こり得ないのだという現実にやり切れなさが募る。
そして、寂しさから逃れるために広瀬を利用するようなやり方を選んではいけないと思いながらも、自分自身を求めている人がいるということに、ただ単純に喜びを感じていた。
様々な感情が茜の中で交錯する。目の前が真っ暗になる――――


そのとき、手に温かい感触を感じた。
反射的に視線を送ると、広瀬の手がすっぽりと茜の手を包み込んでいた。
広瀬は握った手を軽く自分の方へと引っ張り、2人の距離が縮まった。


「大丈夫。きっと、全部上手くいく・・・」


静かにそう呟き、空いた片方の手でそっと茜の髪を撫でた。
広瀬の温かい掌と優しく撫でる感触とが茜の中にじんわり染み込んでいく。
「大丈夫」という広瀬の言葉を盲目的に信じてしまいそうになる。


「・・本当に、大丈夫かな?」


茜は広瀬を見つめ返して無意識にそう問いかけていた。
誰かに信じさせて欲しかったのだ。悠太を忘れることができると。
痛いほどの視線を向けられた広瀬は柔らかい笑みを浮かべ、握っていた茜の手を離した。
そして、そのまま茜の前に手を差し出した。


「この手を取ってくれれば、俺が茜を支えるよ」


茜は差し出された手と広瀬の顔を交互に見つめた。
今選ぼうとしている道は、もしかしたら間違っているのかもしれない。
選んだ先に待ち受けているものは今以上の苦しみかもしれない。
けれど、悠太の幼馴染としてのポジションを失うこと以上に辛いことなど、今の茜には思いつかなかった。


茜がおずおずと手を伸ばし、広瀬の手とそっと重なった。


2人は重なった手を静かに見つめた。
ここから新しい一歩が始まるのだということを噛み締めるかのように。




その後、最初に声をかけたのは広瀬だった。
「ホラ、帰るよ」と、何事もなかったかのように広瀬は茜を促した。
茜の家の前に着くと、広瀬は茜に見送られながら、再び帰路に着いた。
その背中を見守りながら、茜は複雑な心境だった。
広瀬の申し出は唐突すぎて、未だに実感が湧かないでいた。
『彼氏』という存在に憧れがなかったわけではない。
けれど、恋心を自覚した途端に失った初恋は、まだ色濃く茜の中に残っている。
これでよかったのだろうか、という想いが燻っている。


しかし―――


弱い心が甘い誘惑に酔いしれているということも感じていた。
恋愛の経験値が高くない茜にとって、今この瞬間の苦しみを癒してくれる確実な存在に少なからず心が動いていた。
もし、広瀬と付き合うことで広瀬を好きになれたら、悠太の前で『お芝居の幼馴染』ではなく、『本当の幼馴染』になれるかもしれない。
そうならなければいけないと固く決意した心が甘美な誘いに流されることを望み出す。




「お、おい・・・。悠太?」


相手の様子を窺うような物言いで宏基は問いかけた。
一方、問いかけられた方の悠太は俯いたまま、微動だにしなかった。
そっと背後から回り込むように悠太を覗き込む。
すると視界の隅で動くものに反応したかのように、悠太はハッと我に返った。
2人の男女の姿はもうすでに見えなくなっていた。


「あ、ああ・・大丈夫だ」
「全然大丈夫には見えないけど・・。それで、どうするんだ?」


回りくどく聞くのも白々しいと思い、真っ向から宏基は問いかけた。
この一連の出来事を悠太はどのように受け止め、そしてどう対処するのか聞かずにはいられなかった。


「どうもこうも・・。俺が口を挟むようなことじゃない」
「アホか!どう考えても意味ありげな会話だったじゃねーかよ!」


つい声を荒げてしまったが、それだけ悠太のことを心配している証拠だった。


「お前、まさかこのまま黙って身を引くつもりじゃねーだろうな?」
「・・・・」
「第三者の俺が聞いても、今の会話は変だ!まるで契約でも交わしてるみたいな・・」


明らかにあの2人の会話は単純な告白の様子には見えなかった。そう確信している宏基は苦虫を噛み潰す思いで悠太を見た。


「たとえ・・たとえ、どんな理由があったにせよ・・最終的に決めたのは茜だ。茜があいつと付き合うことを承諾したことに変わりはない。今の会話に茜の意志は確かにあった」
「っ・・・」


痛いところを突かれた思いだった。
確かに会話の流れに不審な点はあったが、それでも悠太の言う通り、もし茜にその気が少しもないのであれば、相手の言葉を受け入れはしないはずだった。
宏基が言葉を発せずにいると、不意に悠太が振り返った。
いつもの笑顔を浮かべて。


「心配しなくても大丈夫だよ。俺はそんなに柔じゃない」
「そうは言っても・・・」


穏やかな表情を見せてはいるが、そこにいつもの余裕が感じられない。
一見、普段どおりな笑顔に見えるが、穏やかすぎるその笑顔こそが長年培われてきた演技のように思えてならなかった。


「ほら、宏基もまだ生徒会の雑用終わってないんだろ?さっさと帰って仕事してくださいよ、生徒会長」


わざとらしくおどける悠太に無理矢理背を押され、宏基は仕方なく帰路に着いた。
途中後ろを振り返ると、変わらず宏基を見送っており、それは角を曲がるまでそのままだった。
角を曲がり終えると、宏基は1人ため息をついた。
こんな時まで笑顔を見せる悠太に切なさが過ぎったのだ。
そして、こんな時にまで笑顔を見せられる悠太を、果たして強いといえるかどうかは分からないが、それでもすごいと思ったのだ。




翌日も、悠太はいつも通り登校し、生徒会の業務をこなしていた。
本当にいつも通りに。
昨日のことは夢だったのだろうかと思わず疑ってしまいそうなくらい、悠太はいたって普通だった。
もう、それが演技なのかどうかさえ宏基には判断がつかなかった。
昨日、悠太自身からも「大丈夫だ」と明言されていたことを思い返し、案外大丈夫なのかもしれないなどと安易な考えがつい浮かんでしまう。
それでも、心の片隅から不安の塊を拭い去れないでいることを宏基は感じていた。


「それじゃ、今日の会議はここまでで。各自今日出た懸案事項を整理して、自分なりのでいいから解決策を思案すること」


「解散」という宏基の言葉で生徒会のその日の業務は終了した。
部活や塾等、生徒会メンバーがそれぞれの次の用事へと動き出す中、宏基と悠太は席に座ったままだった。
宏基は昨日の気まずさを引き摺っており、悠太より先に生徒会室を出ることに躊躇いがあった。
幸い、生徒会室の施錠は基本的に生徒会長がすることになっているため、生徒会室を最後に出るのは通常宏基の役目だった。
議事によって板書された黒板を見つめながら、悠太の動向を見守っていると、悠太がスッと席を立った。


「会長・・黒板消していい?」
「え!?・・・あ、ああ。頼む」


自分のことを呼ばれた途端、心臓が跳ね上がり瞬間的に緊張感が高まったが、あまりにも業務的な悠太の言葉に肩透かしを食らったような気分だった。
もしかして、昨日のことは本当にただの杞憂だったのだろうかと思いかけたときだった。
悠太は黒板消しを持っていた手を止めた。


「・・・昨日のことだけど」


突然のことに宏基はただ黙って話の続きを待つことしかできなかった。


「一回ゆっくり考えてみたいんだ。だから、しばらくは触れないで欲しい」


宏基が悠太のことを気にしていることなど百も承知で、敢えて悠太は宏基にそう言った。
釘を刺すために。
「何を考えるんだ?」と喉まで出掛かった言葉を、宏基は何とか飲み込んだ。
きっと、宏基が聞けば悠太は誤魔化さずに話してくれるだろう。
けれどそれによって、悠太は失うものがある。それは「自分自身」だ。
おそらく悠太は、自分自身、今後どうしたらいいかを悩んでいるのだろう。
そこに、第三者の介入が加われば、それはもう悠太自身の決断ではなくなってしまう。
自分で決めて、自分で納得した答えじゃなければ、悠太は受け入れられないのだろう。それを分かっているのだ。
だから、敢えて線を引いた。
それは決して宏基を突き放したものではなく、むしろ大事に思っているからこそ、引いた境界線。

宏基は静かに目を閉じ、「分かった」と呟いた。
ポケットの中から体温で生暖かくなっている生徒会室の鍵を取り出し、そっと机に置く。
そしてそのまま生徒会室を後にした。
悠太なら、きっと大丈夫。
先ほどまで燻っていた暗い感情は次第に薄くなっていた。強がりじゃなく、本当にそう思えたから。
悠太が限界を向かえたとき、それが自分の出番なんだ、そんな想いが宏基の中に生まれていた。


――――倒れたら、助けてやる。だから、それまで踏ん張ってみろよ。