誤算だらけの恋でも
茜のことを知ったのは1年生の秋頃だった。
クラスメイトから聞かされた噂で「上級生相手に啖呵を切った」というような内容だった。
その上級生というのがどうやら立川悠太を気に入ってる人の集まり、いわゆる「ファンクラブ」だったらしい。
最初の印象は、「上級生相手によくやるな」程度。
友人間の関係性を重視する俺には、たとえ相手が初対面であっても考えられない行為だった。いや、むしろ初対面の相手だからこそ、だ。しかも相手は先輩だというのに。
友人と揉めることが嫌いで、多少のことなら目をつぶる。
それが俺の生き方で、正しいことだと思っていた。
お陰で友人には恵まれていたし、その生活に満足もしていた。
ただ、そんな俺とは正反対の行動をした「三木本茜」という人間に多少の興味は湧いた。
「世の中にはそんな奴もいるんだな」程度に。
茜が立川の幼馴染だということを知ったのもそのときだ。
友人の中の1人が「何でそんなことを?コアな立川ファン?」と冗談交じりに発したところ、噂を仕入れてきた奴が、「幼馴染なんだってさ。それで上級生の方からいちゃもん付けられたらしいぜ」というような話をしていた。
立川は校内で有名人だったため存在自体は知っていたが、話したこともないような相手だったし、特別興味もなかった。
それから数日が過ぎたある日、俺は帰り支度をしていたときに偶然、茜と立川を見かけた。
何か言い争いをしているというのが、遠目でも一瞬で分かるほど2人はムキになっていた。
何の気なしにその動向を見ていると、茜が勝ち誇ったような表情になり、それに反して立川は苦い表情をしていた。
「あの立川でもあんな表情をするのか」と驚いたのを覚えている。
人から聞く立川の評判は「冷静」「大人びている」という類のもので、それらからは想像もつかないような本人が目の前にいる。
ついつい動向を見守ってしまうのも無理はない。
苦い表情をしていた立川はそのまま呆れたような表情へと変わり、ちょっと乱暴に、けれど決して突き放すような雰囲気ではなく茜の額を叩いた。
その一連の仕草はまるでスローモーションのように流れ、俺は思わずその2人に見入ってしまった。
幼馴染独特の世界とでもいうのだろうか、お互いが何の気兼ねもせず自然のままで相手を受け入れている、その姿に心がざわついた。
今から思えば、それはおそらく憧れと嫉妬だったのだろう。
しかし、それがきっかけで、俺の中で「立川悠太」と「三木本茜」という人物が個々にインプットされたのは間違いなかった。
その後は学校生活の至るところで2人を見かけるようになった。
それは2人一緒にいる姿だったり、別々だったり。
同じ学校の同じ学年、同じ理系クラスなのだから、校内のどこかですれ違うのは当たり前だし、おそらく以前からすれ違うことなど多々あっただろう。
俺が2人を『集団の中の1人』ではなく、『個人』として認識していなかっただけで。
けれどあれ以来、俺の瞳にはその2人が色を持って映るようになったのだ。
2人を意識するようになると、意外なことを知った。
それは、彼ら2人に関する噂が周りに溢れていたということだ。
立川に関してはそう驚くことでもないのだが、茜に関しては多少の驚きがあった。
なぜなら、立川と違って茜はごく一般的な生徒で、特別目を引くような存在ではないと思っていたからだ。
俺自身、あのときまでは茜の存在そのものを知らなかったのだから。
立川に関する噂は、少し意外な内容だった。
それは、告白してきた少女たちを片っ端から振っているということだった。
友人たちの間では、立川みたいな完璧な人間には恋愛感情というものがないのだろうという認識があったようだが、俺にはしっくりこなかった。
『恋愛感情』とは、つまり『情』だ。
幼馴染相手にあれほど優しい瞳を向ける立川に、恋愛感情がないというのは何となく頷けなかったのだ。
だから、単に相当理想が高いのかと思った時期もあった。
茜に関しては、同じく恋の噂だったのだが、立川のそれとは少し趣が違った。
というのは、茜に近づく男たちは揃って告白する前に玉砕しているというのだ。
どれだけモーションをかけても全く乗ってこないらしい。
これに関しての友人たちの見解は『魔性の女』か『天然』か、というものだった。
前者を望む声が多かったが、立川といたときの茜の雰囲気から後者なのではないかという漠然とした思いがあった。
そんな思いを持っていたせいか、俺は茜をいつも視界の隅々に探すようになった。
どちらなのだろう、という単純な好奇心のなせる業だ。
それが、こんな方向に転ぶとはまるで予想していなかった。
まさか、そんな天然娘に俺が落ちるなんて―――――
俺と立川のクラスは校舎の同じ並びに位置するため、学内での行動範囲がほぼ一緒だった。
だから、教室横の廊下で、俺と立川が居合わせることは確率から言ってそう低くはない。
それはほんの一瞬の出来事だった。
たまたま俺の後ろにいた立川に、たまたま俺と立川の進行方向の前方から現れた茜が、俺を挟んで微笑みかけた。
大切な相手にだけ向けられる、絶対の信頼と底知れない愛情を含んだ輝かしいほどの笑顔。
それを真正面から見てしまった、その一瞬に俺は捕らわれてしまった。
俺越しに立川に送られたあの微笑みに。
そして、次の瞬間には自分でもはっきりと自覚できるほどの嫉妬心を立川に抱いていた。
その笑顔を手に入れたいと。
けれど、そんな嫉妬はただの始まりにしかすぎなかった。
なぜなら、そのときの俺はその笑みの理由は、幼馴染という家族愛に似た世界だと理解していたからだ。
決して恋愛ではない、と高をくくっていたのだ。
天然娘と理想の高い男が、どう考えても当時の俺には結びつかなかった。
しかし、そこにはいくつかの間違いが存在していた。
間違いの始まりに気づくのに、そう時間はかからなかった。
意識して茜を見ていれば、すぐ分かるほど簡単なこと。
なぜ今まで茜を狙っていた男共が気づかなかったのか不思議なくらいだ。
茜の周りには常に立川の『影』があったのだ。
実際に隣にいることも多かったが、そうじゃない。
茜に近づくと、茜の一番身近な存在が立川であるということを思い知らされるのだ。
大抵の女子は立川の前では赤面し、緊張してしまう中で、茜は異色だった。
物怖じすることなく立川と対目し、しかも自分の意見を主張できるというのはこの学内では珍しい存在だ。
それは立川との親密性と比例して考えられた。
そのことを無意識のうちに植えつけられるから、茜に近づく男子たちは立川への劣等感も重なって早々に茜から手を引いてしまうのだ。
立川と比べられたら溜まったものではない、と。
それを理解したとき、俺の中にはある種の余裕すら生まれた。
結局、何一つ茜に伝わっていないまま去ってしまうから、何も始められないんだと。
手に入れたいのなら、ダイレクトにアプローチをしなければ、天然娘の茜には伝わるわけがない。
むしろ、恋愛経験が豊富ではないと思われる茜なら強引に押せば倒せるはずだと。
しかし、それもまた誤算だった。
その計算は、2人の間に恋愛感情がないという前提のうえに成り立つものだ。
その前提が崩れたら、計算は狂い出す。
2年生になり、新生活にも慣れだしたころ、俺はまたしても偶然に翻弄された。
それは人気のない屋上で、女子の団体に囲まれた立川を、先に屋上にいた俺が見てしまったことだ。
その光景を何事かと影から見ていると、立川は淡々と言葉を綴った。
何とかその声を聞こうと耳を澄ましていると、途切れ途切れに聞こえてきた会話の内容は、どうやら茜に手を出すなというような内容だった。
冷静なままでそう伝える立川を目の前にした女子たちは、明らかに狼狽した様子だった。
「や、やだなぁ〜立川くん。あたしたちがあの子に手を出すわけないじゃない?何を根拠にそんなこと・・・」
「俺、知ってますよ?去年の秋過ぎに茜を呼び出したの、先輩方でしょう?」
今度は彼女たちの表情もはっきりと変わった。俺の立ち位置からもわかるほど。
「な・・なんのこと?」
「惚けるなら勝手にすればいい。ただし、俺は二度も黙って見てるほどお人好しじゃないんで」
そう言い捨てると、立川はさっさと屋上を後にした。
残された女子たちは、しばらく立ち呆けていた後、ばつが悪そうに足取りも重く屋上を出て行った。
その全てを影から見ていた俺は騒然とした。やばい、と思った。
あの立川の瞳に隠された優しさの意味を、知ってしまったのだから・・・。
最後に立川が女子たちに向けた、あの冷徹な表情、鋭さを伴った瞳。
直感ではあったが、それが外れている気がしなかった。
立川は茜のことを、幼馴染としてではなく1人の女として好きなんだと。
それでも、俺が何とか平静を保てていたのは、2人は相愛なのではないと思っていたからだ。
茜自身に恋愛感情が芽生えていないのなら、ずっと隣にいた立川よりも、俺みたいな距離のある男の方が異性として意識されやすいだろうと考えていた。
もし運命というものが本当にあるのだとしたら、俺はどこまで運命に弄ばされるのだろうか。
それすらも誤算だったなんて――――――
初めて茜と一緒に出掛けたあの日曜日。
俺たちの初めの一歩となるはずだったその日に、俺は真実を垣間見てしまった。
偶然、立川が女といるのを見かけたときの、あの茜の表情がずっと頭の中から離れない。
俺には計り知れない程のショックを浮かべて立ち尽くしていた茜。
瞬時に俺の中では最悪の事態を予想させる警告が発せられた。
だから、昨日一晩考えた結論がこれだった。
たとえ茜が立川を好きだったとしても、絶対に譲りたくないから。
運命が立川と茜を必死につなぎ合わせようとしても、それを打ち壊してしまいたいから。
ずるくてもいい。それで茜を手に入れられるのなら、俺は地獄に堕ちたとしても本望だ。
気負わせないようにあくまで軽いフリをして、その中にほんの少しの本気だけを織り交ぜて。
考える暇なんて与えない。考えたら、茜の答えは必ず「No」だから。絶対に「Yes」しか言わせない。
「茜さ、俺と付き合ってみない?」
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