偽りに敗れて
「茜、もう出たんすか?」
週明けの月曜日。
悠太は数日ぶりに茜の家に寄っていた。
だが目当ての相手はすでにいなかった。
「あの子、ここしばらく変なのよ。起こしに行く前に下りてくるの!朝が弱いあの茜が、よ」
ひどい言われようではあるが、その表情はいたって真剣だ。
母親なりに娘を心配しているのだということが真っ直ぐに伝わってくる。
そんな母親の心情を汲み取って、悠太は「心配ないっすよ」と一言だけ言い置き、学校へと向かった。
いち早く茜に会いたかったからだ。
けれど、悠太は学校に着くや否や宏基に捕まったのだった。
「悠太―!で・え・と、どうだった?」
ニヤニヤしながら、嬉しそうに話しかけてくる宏基。
ため息をつきそうになりながら、悠太は宏基を連れて屋上に向かった。
事の真相を話すために。
麻紀とのことはただの噂で全くのデタラメであるということを。
悠太にとっても宏基は大事な友人であり、そんな相手に誤解されたままというのは嫌だったからだ。
わざわざ屋上まで出向いてどんな話が聞けるのかと楽しそうにしていた宏基だったが、悠太が話しを切り出すとスッと表情が変わった。
最初こそ驚いた様子だったが、すぐさま事態を理解したようだった。
悠太の言葉を一言一言、丁寧に聞き入っていた。
そして、悠太が一通りを話し終えると宏基は屋上の柵に背を預け、空を見上げながらポツリと呟いた。
「そうか・・。俺、悪いことしちまったな。お前にも麻紀ちゃんにも・・」
普段賑やかな性格の宏基が静かに告げた言葉にはズシリと重みがあった。
心底後悔しているという表れだ。その表情に悠太はいくらかの心苦しさを覚えた。
元は宏基の完全な好意でセッティングされた昨日のデート。
結果としては全てが誤解だったわけだが、宏基の好意までは否定したくなかった。
それだけ悠太自身が宏基に大事に思われている証拠なのだから。
「いや、でも俺はむしろありがたかったよ。やっと佐藤とちゃんと話せたんだから」
「・・・・。なぁ、お前がそこまでするってことは、理由があるんだろう?今まではのらりくらりとかわし続けてきたんだし、他の子たちにだってそんなに冷たく拒絶したことなかったろ」
宏基の鋭い指摘に悠太は思わず言葉に詰まってしまった。
そんな悠太の心情を察してか、宏基は柔らかく笑った。
「俺の目、なめんなよ。お前がちゃんと優しさを持ってる奴だってことはよく知ってるんだから。・・・・だからさ、そうまでして守りたかったもの、大事にしろよ」
人を傷つけることを好まない悠太の内心を知っているからこそ、宏基は居た堪れなかった。
大切なものを守るためとはいえ誰かを傷つけるという行為を、悠太自身、望むはずがない。
だからこそ、悠太の心は人知れず傷ついているのだろうと宏基は悟ったのだった。
そんな悠太に自分ができることは、悠太の代わりに彼を許すことではないかと思えた。
他人を傷つけた事実を、悠太は決して自分では許せないだろう。だから、その代わりに。
たとえ悠太自身が受け入れなくとも、多少の安らぎは与えられるはずだと信じて。
空を見上げていた視線を下ろし、そのまま流れるように悠太に向ける。
いつもより少しだけ見開かれていた悠太の瞳は、合わされた宏基の視線とぶつかると一瞬遅れて穏やかな色を浮かべた。
宏基の言葉が悠太の中に深く深く沁みこんでゆく。
温かい友愛に触れ、心地よさと若干の照れくささを感じ、「・・・ああ」と小さく呟くと、悠太は静かにその場を後にした。
昼休み。昼食をとり終えた悠太は茜の教室を目指した。
「茜と会って話がしたい」そう思う気持ちが自然と悠太の足を速める。
教室に着きクラスメイトづてに呼び出した茜は、明らかに不自然だった。
目を合わさないし、軽口を言うこともない。何よりも重そうな足取りで近づいてきた。
2人の間の何かが崩れてしまっていることは明白だった。
どうしてだろうと考えている暇はない。
今、やらなければならないのは壊れてしまった『何か』の修復だ。
そう思い、悠太は口を開いた。
「なぁ、今日一緒に帰れないか?」
悠太の誘いに茜の体が小さく、だが確かに反応した。
それは驚きと拒絶が入り混じった反応。
だから次に紡ぎだされる言葉は、音となって悠太の耳に届く前に予想ができた。
そして、それと違わぬ言葉を茜は口にした。
「ごめん・・今日、先約があるんだ」
そう告げる茜からは戸惑いが窺えて、それが嘘なのだろうということは容易に想像できた。
引き下がるわけにはいかない―――強く決意して悠太は茜を見つめた。
たとえその言葉が事実だったとしても、どうしても譲れないから。
「それって、牧村か?・・だったら悪いんだけど、今日は譲って欲しい。俺から牧村に話しとくから・・。どうしても今日、茜と話がしたいんだ」
茜の動揺が感じられ、やはり約束があるというのは嘘だったのだろうという想いが強まった。
茜を捕らえるために、少しずつ確実に茜の嘘を追い詰める。
逃げ場がないように。肯定の言葉しか出せないように。
あと少し、そう思ったところで思わぬ顔が悠太の瞳に映った。
「悪いねー。それ、俺なんだ」
いつの間に、どこから現れたのか茜の後ろに広瀬が立っていた。
昨夜、茜の部屋の窓越しに見止めただけの存在。お互いに正式な知り合いではなく、会話も交わしたことがなかった。
そんなほぼ初対面に等しい2人が向かい合い、茜を挟んで立ち並んだ。
事態を飲み込めていない様子の茜と想定外の出来事が起こり多少面食らっている悠太、そしてどこか気迫を感じさせる雰囲気のある広瀬。
茜を自分の方へと引き寄せながら、余裕ありげに微笑むその様はどこか悠太を試しているような様子でもあった。
たった数秒重ね合わせただけの瞳が雄弁に物語る。「ここはお前が引け」と。
思わず悠太は言葉を失ってしまった。
大抵の生徒は悠太と対面したとき、悠太の威圧感に押されてしまう。
それは悠太が意図的に醸し出しているものではなく、むしろ悠太の強い存在感を前に生徒たちの方が一歩引いてしまうからだ。
それほど、この学校において悠太の存在感は大きかった。
だが、今悠太と対峙している広瀬からはそういった様子はまるで感じられない。
対等な立場に立って悠太に向き合っている。
本来は同じ年で同じ学校に通っているのだから、これがあるべき姿勢なのだ。
ただその本来あるべき姿勢を保てる人間がこの高校にはいなかったため、悠太は広瀬に対して多少戸惑った。
しかも、茜の嘘に話を合わせている広瀬の方がこの場合有利だ。
ここで引かないのは明らかにおかしい。
「茜・・本当か?」
最後の頼みの綱は茜だけだった。茜の口から「Yes」を告げさせなければ、他に手はない。
視線を茜に戻し、真っ直ぐに茜の瞳を見つめた。
全てを見抜いているからこそ、一転の曇りもなく相手を突き刺す視線。それに引き換え、茜は自分に落ち度があるため余計にその鋭さを感じてしまう。
その瞳に見つめられながら嘘を突き通すということは一般の生徒ならまず無理だろう。
しかし、17年間共に過ごしてきた茜には、ごく僅かながらその瞳への耐性が鍛えられていた。
茜は悠太の視線から逃れるように俯き、コクンと小さく頷いた。
「何でここにいんの?」
放課後の生徒会室に佇む人影に向かって、この場所の最高責任者である光成宏基は静かに声をかけた。
「今日、生徒会はないはずだけど?用事頼んだ覚えもないし」
彼の言うとおり今日は生徒会の予定はない。他の生徒会メンバーはそれぞれ部活や各自の予定を遂行している。
ただ生徒会長である宏基には簡単な事務作業があったため、たまたま生徒会室に来ただけだ。
別館に据えられている生徒会室は放課後の喧騒から離れ静けさが際立っている。
その中に、本来いるはずのない人間を見つけた。
「ほっとけ」
入り口に背を向け窓の外を見つめたまま一言呟いた悠太の方へ宏基は歩み寄る。
窓の桟に手を置くと、正門から下校していく生徒を見下ろすことができた。多くの生徒が放課を楽しみながら学校を後にしていく。
そんな雰囲気を恨めしそうに見つめている悠太の様子から、まだ事態が解決していないのだろうということを読み取るのは簡単だった。
「何だよ。こんなとこにいる暇があったら他にやることあるんだろ?」
「・・ウルサイ」
「何不貞腐れてんだよ?」
今朝話したときは、何か切羽詰っているような雰囲気すら感じられたのに、今はまるで拗ねた子どものように、ただ下校していく生徒たちを見つめていた。
思い過ごしだったのだろうか、そんな思いが過ぎった。
昨日、悠太は麻紀を傷つけても守りたいものを優先したのだと感じていた宏基は、てっきり悠太は今頃その誰かと会っているものだと思っていた。
それほど今朝の悠太からは鬼気迫るものを感じたのだ。・・そのはずだった。
不審を秘めた視線を横目に投げかける。
しかし悠太はこの至近距離にも関わらず宏基の視線に気付く気配すらなかった。
いつもと雰囲気の違う悠太にますます不可解さを募らせると、一瞬悠太の瞳が動いた。
それは微かな動きだったが、宏基にははっきり見て取れた。
思いがけず悠太の視線の先を辿る。
そこにいたのは一組の男女。
その女生徒には僅かながら見覚えがあった。
「あれって、確かお前の幼馴染・・だよな?」
いつだったか悠太に資料の整理を頼んだとき、彼女と一緒にやり終えた資料を持ってきたことがあった。
それ以外にも、悠太は頼んだ仕事を生徒会室ではなく、自分の教室で行うことが何度かあった。
そういうときは、いつも決まって少し棘のある言葉と他に向けることのない優しい色の瞳をしていた。
それがおそらく悠太の素の姿で、幼馴染相手だから出せる表情なのだろうと勝手に思っていた。
不意にパズルのピースがぴったりはまったような感覚を覚えた。
「お前、もしかして・・」
半信半疑のまま、宏基は口を開いた。悠太の様子を窺う。
視界の隅に映っていた2人は気づけば校舎の影へと消えてしまっていた。
「どこからだったんだろう・・。何かが崩れてしまっているのは分かってるんだけど、それが何か分からないんだ」
相変わらず焦点の定まっていない視線を浮かべて悠太が呟いた。
宏基はどう声をかけていいのか分からず、ただ静かに悠太を見た。
それは初めて見る、どこか愁いを帯びた表情だった。
宏基が知る立川悠太という人物は冷静沈着で隙がなく、いつも余裕のある笑みを携えていた。
高校生には似つかわしくないほど大人びている悠太が、宏基にとっては普通の悠太だった。
悠太の全てを知っているなんてことはあり得ないが、それでもただのクラスメイトたちよりは近い位置にいると思っていた。
そんな宏基でさえ、初めて見る悠太がそこにいた。
「まだこのままでいられると思ってたんだ。つかず離れずこの位置で・・」
初めて聞く悠太の本音に宏基は居た堪れなくなった。
どれだけ大人びて見えたところで、やはりまだ年相応なんだとそんな当たり前のことに気づき、切なさが過ぎる。
今までどれだけの想いを呑み込んできたのだろうと。
宏基は静かに悠太の肩に手を置いた。
「馬鹿だな。まだ失ったわけじゃないだろ?とりあえず今日は帰ってもう寝ろ」
宏基の言葉をきちんと聞いているのかいないのか、悠太は何の反応も示さない。
仕方なく宏基は机の上に無造作に置かれている悠太の鞄を手に取ると、反対の手でコツンと一つ悠太の額を弾いた。
「俺が送ってってやるよ」
ニヤリと微笑む宏基を横目に、悠太が小さく微笑んだ。
「いらねーし」
宏基の言葉に、頼りなげではあるが軽口を返した悠太に、宏基は多少の安堵を得た。
笑える余裕がまだ悠太にはあるから、まだ大丈夫だと。
「ってホントに家まで送るか?普通・・」
心底げんなりした様子で抗議の言葉を発しながら、夕暮れ時の住宅街を悠太は宏基と並んで歩いていた。
「とか言いつつ本当は嬉しいくせに。素直に喜べって」
「男が男を家まで送るって本気で寒いぜ・・?」
口では憎まれ口を言いながらも、自分を気遣ってくれている友人に、悠太は大きく励まされていた。
そんな仄かな温かさをも奪うかのように現実はどこまでも残酷だった。
角を曲がった先で、突然広がったその風景。
悠太の通う高校の制服に身を包んだ男女の姿があった。
思わず悠太と宏基は角の陰に身を潜めた。
―――そこにいたのは茜と広瀬だった。
どこか緊迫した雰囲気の中、その言葉ははっきりと悠太の耳にも届いた。
「茜さ、俺と付き合ってみない?」
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