秘事を照らす







「・・よし。これで忘れ物はないよね」


散々茜の頭を悩ませた例の数学の課題が鞄の中に入れられる。
このプリントを渡されたのはほんの数日前のはずなのに、茜にはずいぶんと昔だったように思えてならない。
それだけこの期間に起きた出来事が茜にとって重かったのだろう。

用意の済んだ鞄を手に部屋を出る。
時計の針は8時前を指しており、学校には余裕で着く時間だった。
キッチンにいる母親に「行ってきます」と一声かけそのまま玄関を出た。
玄関を出てすぐ目に入ったのは明るい光。
暖かな春の日差しは少しずつその輝きの強さを増し、春の終わりを告げ始めているようだ。






「おはよう、茜」


学校に着き、靴を履き替えているところで茜は背中から声をかけられた。
振り返った先にいたのは百合子だ。
数日前には嫌味を言われるほど、この時間に学校にいることに驚かれた茜だったが、百合子も少し慣れたのか、今の表情に驚きの色は強くなかった。
「おはよ!」と返した茜に続いて百合子も靴を履き替える。


「結局、課題は終わったの?」
「ああ・・・うん、何とかね」
「なのに、今日も1人なの?」


茜が課題をやり終えたということは、百合子の中では茜と悠太が2人の時間を持つことができたという意味に変換された。
それにも関わらず、一人で登校している茜にいくらかの疑問を持ったのだった。


「・・え?・・あ、悠太のこと?」


茜の問いかけに視線だけを投げかける。
百合子と悠太が裏で繋がっていることなど知る由のない茜は、自分が見た真実だけしか話すことができない。
無理に作った笑顔で口を開いた。


「デートで忙しいんじゃないの?」
「え・・?」


「それ、どういうこと?」と続けられるはずだった百合子の言葉は第三者によって遮られた。


「茜、おはよ!・・てか、めちゃ早くね?遅刻魔のクセに」


爽やかな笑顔を浮かべながら茜と百合子の背後から声をかけたのは広瀬だった。
茜の頭に手を伸ばし、クシャッと優しく髪を掴む。


「広瀬!!もう!セットが乱れる!」


少し大袈裟に抗議しながら茜は広瀬の手を振り払った。
その様子からはどこか親密な関係を匂わせられ、百合子はただ見つめているしかなかった。
隣の百合子の存在に気を使ってか、広瀬は挨拶も早々に2人を追い抜く形で自分の教室へと向かって行った。


「ねぇ・・今の、3組の広瀬・・だよね?茜、仲良かったっけ?」
「ううん、つい最近知り合ったばっかだよ。でもすごいイイ奴でね」
「そうね。彼、いい話しか聞かないし」
「あれ?百合子知り合いなの?」


まるで知り合いかのような口ぶりの百合子に、茜は思わずそう問いかけた。


「ああ、中学一緒なのよ。って言っても一度もクラスが一緒になったことないから、そこまで親しくはないんだけど」
「へぇ、そうだったんだ。・・話では、どんな奴だったの?」
「とにかく顔が広い感じだったわよ。しかも結構みんなに好かれてたみたいだし」
「それ分かる気がする。気兼ねないっていうか、親しみやすいっていうか」
「・・・べた褒めね」


嬉しそうに広瀬のことを話す茜の様子に多少の不安を感じた百合子ではあるが、だからと言って何かできることがあるわけでもなく、ただ複雑な心情で茜の話を聞いていた。
その不安が的中することになるとは、このとき想像もしていなかった。



1時間目が早速数学の授業で、授業の前に課題を集められた。
中には数人、間に合わなかった生徒もいたようで、追加の課題が告げられていた。
その後教師は不服を告げる生徒を一切無視し、授業を始めた。



午前中の授業が終わり、生徒それぞれが昼食をとり始める。
茜や百合子も例に漏れることなく弁当を持ち寄って1箇所に固まった。


「あー、休み明けの授業はちょっときついわねー」


大きく伸びを一つしながら、友人の1人が小さな不満を口にした。
それに頷くように茜たちも苦笑いを零す。
茜が食べ終えた弁当箱を片付けようとしていたとき、不意にクラスメイトの声が届いた。


「茜!立川くんが来てるわよ」


聞こえた瞬間に茜の周りの空気だけが張り詰めた。
おそらく茜のそんな様子に気づいたのは百合子だけだろう。
躊躇いがちに、それでも茜は呼ばれた方へと足を進めた。
だんだんと近づく悠太との距離。その度に心臓の音が激しさを増した。


「・・どうしたの?教室まで来るなんて珍しいね」


ぎこちない笑みを浮かべる茜。
それに気づいていながらも、悠太はあえてそのことには触れなかった。
その表情で、はっきりと分かってしまったから。
2人の間には、以前のような雰囲気がもうないこと。
お互いの気持ちがずれてしまっていること。
悠太はため息をつきそうになるのを何とか堪え、重い口を開いた。
狂ってしまった全てを元に戻すために。


「なぁ、今日一緒に帰れないか?」


悠太はここ数日の間に自分に起きたこと、麻紀のことを全部茜に話すつもりだった。
それが2人にとって何を意味するのかは定かではなかったが、今悠太にできることはそれくらいだと思ったからだ。
茜との間に距離が出来始めたきっかけ。そこに多少なりとも麻紀が絡んでいる可能性は高い、悠太が辿りついた結論だった。

しかし問いかけを受けた茜の表情は相変わらず憂いが表れている。
今まで悠太と一緒に帰ることは多かったが、わざわざ約束をしてまで一緒に帰ったことはほとんどない。
それこそ、つい先日に悠太が茜を誘いに来たとき以外は。あのときは、茜は悠太をすり抜けて逃げ出してしまったのだ。


「ごめん・・今日、先約があるんだ」


茜の口をついて出たのは偽りの言葉だった。
「ちゃんと向き合わなくては」と思う一方で、これ以上悠太との距離が遠ざかることを強烈に恐れている自分がいる。
悠太に『彼女』を紹介されたとき、それが茜にとっては最後の、最大の宣告となる。
今の自分に、果たして完璧な幼馴染を演じることができるのだろうか。
笑顔で祝福の言葉を述べることができるのだろうか。
昨夜の決意は、そんな不安の前ではあっけなく崩れ去っていく。

茜の返事にそう簡単に引き下がれない悠太。
茜を、その吸い込まれるような瞳で見つめて口を開いた。


「それって、牧村か?・・だったら悪いんだけど、今日は譲って欲しい。俺から牧村に話しとくから・・。どうしても今日、茜と話がしたいんだ」


いつにない強引な悠太に、茜は奇異を感じた。
何とか退避しようにも、見つめられた瞳から目を離すことすらできない。
異議を唱えさせない、強い眼差し。それにどんどん吸い込まれてしまう。

茜は返事に困って固まってしまった。
本当は、今日は誰とも約束などしていない。
ただ事態を先延ばしにしたいがためについてしまった出任せでしかないのだ。
もう今更後には引けない、どうにかしてこの嘘を突き通さなくてはと焦る心情は余計に茜から言葉を奪っていく。

そのとき、固まってしまっていた茜の体に、不意に自身のものではない力が加えられ、グラリと茜の体は後ろに傾いた。


「悪いねー。それ、俺なんだ」


後ろに傾いた茜の体を自分の体で受け止めながら、広瀬が2人の間に口を挟んだ。


「広瀬!?」


体が動かされた反動で我に返った茜は自分の真後ろにいる広瀬に驚きの声を上げた。
しかも実際、広瀬とそんな約束をした覚えがない。茜にとっては有難い助け舟ではあるが、何故広瀬がそんな行動に出ているのか、茜にはまるで分からなかった。
状況を理解しきれていない茜を挟んで対峙した悠太と広瀬。
お互いに相手の存在を知ってはいるが、こうして面と向かい合ったのは初めてだった。


「悪いけど、俺の方が先約だからさ」


ニヤッと余裕の笑みを繕いながら広瀬は付け加えた。
相変わらず今の状況に疑問ばかりが浮かび上がる茜。
悠太はスッと視線を茜に戻した。


「茜・・本当か?」


そう悠太に問いかけられても咄嗟に声は出なかった。
どう答えたらいいのか分からなかったというよりは、何が起こっているのか分からなかったという方が正しい。
それでも、人間は自分にとって好都合な方へと流されてしまう弱い生き物なのかもしれない。

茜は悠太から視線を逸らしてコクンと小さく頷いた。
その後、悠太は「そうか」と一言呟くと茜に背を向けて歩き出した。
悠太が角を曲がるのを見届けると、茜は広瀬に向き直った。


「・・どうして?」
「何が?」
「今日、約束なんてしてないよね?」
「ああ、してないよ。・・でも助かっただろ?」


そう言うと広瀬は意味深な笑みを茜に向けた。
改めて茜はまじまじと広瀬を見た。まるで全てを見透かされているような感覚。
どうして、この男は自分の考えていることが全部分かっているかのような行動を取るのだろうか。
今の状況を広瀬はどのように解釈しているのだろうか。
いくら考えを巡らせたところで、茜に分かるはずもなかった。


「じゃ、そういうわけで、放課後な」
「え・・?」
「だから、一緒に帰るんでしょ?」


その場限りかと思われた言葉は、広瀬によって繋ぎとめられた。
「帰り、迎えに来るから」と言い置き、広瀬は自分の教室へと帰っていった。
それをただ呆然と見送った後、我に返り、自分も教室に入ろうと後ろを振り返った茜は、百合子と視線がぶつかった。
一瞬遅れて笑顔を返したが、その表情にはどこか硬さが拭いきれていない。
百合子は、茜と悠太の間に未だ亀裂が入ったままなのだということを瞬時に察したが、茜と同じく笑顔を浮かべた。
今、自分にできること、自分がすべき役割は見守ることなのだろうと判断したのだ。
結局は当人同士でしか解決できない問題なのだから。






放課後、一足先にHRを終えた広瀬が生徒玄関で茜を待って2人は帰路に着いた。


「そういえば3日連続だな」


唐突に話し出した広瀬に茜は「何が?」と頭の中で考えた。
しかし茜が考え付くより先に広瀬が答えを口にする。


「さすがにこれで茜の家も完璧に覚えた」
「あ、そうか。昨日も一昨日も広瀬に送ってもらったんだ」
「そうそう。まるで俺って茜のお守り役みたいだな」


ふざけた口調で話す広瀬。軽口を叩きながらも、柔らかい表情で茜に視線を合わせる広瀬からは、嫌味な感じは全く受けない。
だからか茜は広瀬の言葉に対して思わず笑みがこぼれた。
いつだってそうだ。
広瀬といると茜は自然に笑うことができる。
辛い感情を、たとえ一瞬だけでも忘れることができる。


「ねえ、今日、どうして先約は自分だなんて言ったの?」


午後の授業中、何度思い返してみても茜は不思議で仕方なかった。
なぜ広瀬はあのタイミングで自分が困っていることを察したのか。
広瀬の口から答えを聞きたかった。


「うーん・・・何でって聞かれても。・・ただ茜が困ってるように見えたから、かな?」
「・・顔に出てた?」
「いや。でも、俺には分かった。それにもし本当に先約があったなら、それはそれでよかったし。俺にとって重要だったのは、茜が助け舟を欲してるように見えたってことだから」
「広瀬って、観察眼鋭いんだね。・・でも、ありがとう」


お礼を言うことは悠太を否定することのようにも思えたが、それでもまだ心の準備ができていなかった茜にとって、広瀬の発言はとても有難かった。
今日悠太と一緒に帰ったとして、その先に何があったのか今では確かめる術もないが、それを先送りしたことにより、茜は多少心のゆとりができたような気持ちだった。


「お礼を言うってことはさ、やっぱり幼馴染くんを避けてるってこと?」


広瀬は窺うような口ぶりで唐突に口火を切った。
それは昨日芽生えた想像だ。
悠太と麻紀の姿を街中で見つけたときの、あの茜の様子を目にしてからずっと気になっていた。
それに加え、今日の茜の行動から広瀬は半ば確信した心情で茜に問いかけた。


「・・・うん。今は、ちょっと」
「それってあの噂のせい?」


『立川悠太と佐藤麻紀が付き合いだした』

その類の噂は、瞬く間に広がった。何しろ校内では2人ともかなりの有名人だ。
悠太にはファンクラブのようなものがあり、麻紀は裄城のミスに選ばれている。
そんな2人が付き合いだしたというのだから、それは人から人へ留まることなく広まった。
噂というのはそのほとんどに作り話が加えられ、確かな証拠などなくてもそれが真実として受け止められてしまうのだ。


確信をつかれた茜はその動揺を悟られないようにと、努めて冷静を装った。
ただ、視線だけは広瀬へと向けることができなかった。
視線を合わせたら、きっとこの動揺を広瀬はあっさりと見抜いてしまうだろう。
茜の本能がそれを避けた。


「・・応援しなきゃって分かってる。ただ、あまりに突然だったから」


茜は小さくそれだけ言った。
絞り出すように発した言葉は自分でも震えているのが分かるほどだった。


「そうか・・。俺はてっきり一方通行なのかと思ってたんだけど・・・」


1人何かを納得したように広瀬は呟いた。
そして並んで歩いていた茜の前に立ち回って、歩みを止めた。
急に前に立ちはだかった広瀬に、茜は思わず視線を上げた。
ぶつかった視線。
広瀬は茜の瞳を真っ直ぐに見据えながら言葉を発した。


「茜、幼馴染のことが好きなんだな」


重ね合わせた瞳を一瞬だけ大きく見開いた茜だったが、すぐに寂しげな表情を浮かべた。
誰にも告げずにいた胸の内をいとも簡単に見抜いてしまった広瀬に対して、茜は意外にも驚きよりも安堵感を覚えていた。
1人で耐え続けるには、もう限界に近かったのだ。
誰かにこの苦しみを打ち明けたい。
日に日に強くなっていたその思いが、広瀬の一言で溢れ出たようだった。


茜の瞳から一筋の涙が流れる。


「・・馬鹿だな。そんなに無理することないだろ?」


広瀬は静かに涙を流す茜を優しく見つめながら、そっと茜の頭に手を乗せた。
「大丈夫だ」と励まされているようで、茜の涙はさらに溢れた。
堪えていたものが解放され、それが涙となって出てくるかのように。
広瀬は茜の頭を抱き寄せると優しくその腕で包み込んだ。
広瀬の温もりに包まれた茜はその胸に少しだけ寄りかかりながら小さく声を漏らす―――



次第に落ち着きを取り戻し始めた茜は「ありがと」と言って、静かに広瀬から離れた。
その瞳は今流した涙のせいで赤くなっている。
そんな茜の様子を見ていたら、つい止められず広瀬は口を開いた。


「なぁ、そんなに辛いんならもうやめたら?」
「何を?」
「幼馴染くん」
「・・・そんな簡単にやめられるんなら、とっくにやめてるよ」
「だったら、無理矢理にでも他に目を向けてみるとか」
「・・他って?」


広瀬の言葉の真意が掴めず、疑問を表情に隠すことなく出す茜に、広瀬は一歩近づき、その距離を縮めた。


「茜さ、俺と付き合ってみない?」