終局へ…
茜が広瀬と遊びに出掛ける日曜日。
悠太は生徒会の集まりに声をかけられており、日曜日にも関わらず制服を着込んでいた。
昨夜、茜から遊びに行くことを聞かされたとき、瞬時にその相手が広瀬だと悠太は直感した。
茜を送り届けてきた広瀬と窓越しに目が合った瞬間の、あの挑戦的な瞳が何を意味するのか、察しをつけるのは簡単だった。
正直、悠太にとって茜が広瀬と遊びに行くというのはあまり喜ばしいことではない。
しかし茜との関係を焦ってなどいない悠太にとって、茜が男友達と遊びに行くというのを反対する理由は一つもない。
だからこそ、特に何かを言うでもなく昨夜は自宅へと戻ったのである。
これまでも友達の多い茜がそれこそ男友達とどこかへ遊びに行くということは多々あった。
まぁその内の何割かは中学時代の友人でもあるので、悠太自身もそのグループに加わっているのだが。
軽いため息を吐きながら、身支度を整え終わった悠太は携帯電話を手に取り部屋を出た。
朝食はすでに食べ終えていたので、そのまま玄関に向かう。
玄関で靴を履こうとしたとき、ポケットに入れたばかりの携帯電話が着信を知らせるべく振動を伝えた。
取り出して着信画面を確認すると、生徒会長からの電話だった。
「もしもし?」
『おぉ〜悠太!まだ家出てないよな?』
「はい?・・今出ようとしてるとこっすけど」
生徒会長であり、悠太の先輩でもある3年の光成宏基。
元々知り合いであったため、先輩という以前に1人の親しい友人であった。
宏基の方も学年が違うということなど全く気にせず、悠太の人柄そのものを高く評価していた。
そのため、自分が生徒会長に当選するとすぐに気心の知れている悠太を生徒会に呼びつけたのである。
生徒会の中における悠太の内密な役職は「臨時補佐」。
しかし、単純に「臨時補佐」と言っても会計や書記らと同様の仕事をしたり、時には部活動などで生徒会に顔を出せない者の代理を務めたりしているので、重宝されているのである。
『あのな、今日お前学校来なくていいから、頼みたいことがあるんだ』
「あ・・そうなんすか?」
『おう、会議はたぶん大した話し合いにならないだろうし。それより生徒会の備品買ってきてくれよ』
「備品・・すか?・・・いいっすけど」
『そうか!いやぁ〜助かるぜ!』
「で、何の備品すか?」
『あぁ・・生徒会室で切らしてる細々とした備品なんだけど。大丈夫、助っ人頼んでるから』
「助っ人?」
『そう!そいつに備品リスト持たせてるからさ。10時に駅前の広場で落ち合ってくれ』と言うと、宏基はさっさと電話を切ってしまった。
「・・誰と?」という疑問は問いかける前にそのタイミングを断ち切られてしまった。
悠太に与えられた情報は10時に指定の場所に行くということだけ。
切れた携帯電話は数秒たった後、待ち受け画面へと切り替わった。
そこに表示されている時間はまだ8時すぎだ。
駅前へはバスで行くと10分少々。歩いても30分ほどで着く道のりである。
待ち合わせが10時ならば時間にはかなりの余裕がある。
「・・とりあえず、着替えるか」
学校に行く必要がないのなら制服で行く必要もない。
私服に着替えたところでどうせ準備はできてしまっているのだから、のんびり歩いて行くのも悪くないかもしれない、そんなことを考えながら悠太は再び部屋へと戻った。
日曜の駅前は人の流れも多く、賑やかだ。
悠太は春の穏やかな気候を楽しみながら駅前までの道のりをゆっくりとした歩調で歩いてきたが、それでも予定の時間より30分以上早く着いてしまった。
駅前の広場には休憩スペースが設置されており、早めに着いたとしても十分にその時間を満喫できる。
噴水を中心に、囲むようにいくつかのベンチが置かれ、悠太はその一つに腰を下ろした。
何をするでもなく噴水から流れ出る水を見つめていると、ここ数日の出来事が鮮やかに思い出された。
麻紀からの二度目の告白と、茜に興味を抱いているであろう男の登場・・・。
悠太にとってはどちらも頭を悩ませる存在でしかない。
だが、広瀬のことで悠太ができることは何もない。
ただ思い悩むことくらいしかできないほど、悠太にとって遠い存在なのである。
反して、麻紀のことは悠太の問題である。悠太と麻紀2人の。
麻紀が茜にどのような感情を抱いていたとしても、だからと言ってそれが茜と悠太の関係に口を挟むことができる理由にはなり得ない。
しかしその理屈は悠太自身のものであり、麻紀には通用しないのだ。
いつかの百合子の言葉が蘇る。
“茜、表面上は笑ってるけど、すごく辛そうなのよ?”
悠太にとって未だその真偽が掴めていない問いかけだった。
しかし「そうかもしれない」と思うところは所々あった。
突然、「このままじゃダメだ」と距離を取ろうとし出した茜。
そして、悠太を振り切って走り去った一昨日の出来事。
なぜ茜があんな行動に出たのか、悠太にはまるで分からなかった。
頭に浮かぶのは百合子の言葉ばかりだ。
もし、本当に茜が自分と麻紀との噂で何かしらのショックを受けているのだとしたら、やはりそれはどうにかしたい。
――――たとえ、麻紀をどれだけ傷つけたとしても
「悠太くん?」
考えを巡らせていた悠太の耳に、突然響いた声。
その声色に覚えがある気がして、悠太は即座に振り返った。
「佐藤・・・何でここに?」
「え?光成先輩から聞いてない?買い出し一緒に行くようにって言われて来たんだけど・・」
「え・・?」
麻紀の言葉を言葉としては理解していながらも、意味が分からなかった。
なぜ生徒会の買い出しに何の関係もない一般生徒である麻紀が来るのか。
すぐに悠太は携帯電話を取り出すと着信履歴から宏基に電話をかける。
会議がすでに始まっているせいか、宏基は数回のコールの後にやっと出た。
「宏基先輩!これ、どういうことですか!?」
相手が電話に出ると同時に、悠太は急ぎ口調になりながら喋っていた。
「あ〜、麻紀ちゃんのこと?・・・お前も水臭いよなぁ。お前の口からじゃなく噂で知ったときは俺は悲しかったぞ」
「はぁ?」
「しかも何だよお前。麻紀ちゃん、お前との時間がもっと欲しいって寂しがってたぞ。そんなんじゃダメだろ!だから、今日のは俺からのお祝いだ」
「・・・・」
完全に誤解してしまっている様子の宏基に、今この場で何を言っても通じないだろうということを瞬時に悟った悠太は宏基の様子を窺うことなく一方的に電話を切った。
「ハイ、これ。光成先輩から預かった備品リスト」
悪びれる様子などまるでなく、むしろ今日一日悠太と過ごせることを心から喜んでいるかのような雰囲気さえ漂う麻紀の笑顔はより輝いているようだった。
またしてもため息がこぼれそうになる悠太だったが、ふと思いついたような表情になった。
これは、チャンスかもしれない。
学校では周囲の目を気にしてなかなか麻紀とちゃんと話すことができないでいた。
だからこそ、今日ならば、麻紀ときちんと向き合って話ができるかもしれない。
「じゃ、とっとと行くぞ」
そのためにも、まずは買い出しをさっさと終わらせてしまおうと、悠太は差し出されたリストを受け取った。
しかし麻紀はある一点をまっすぐ見つめていた。
「何だ・・三木本さん、デートなんだ」
呟くように言った麻紀の一言。しかし悠太はそれを聞き逃さなかった。
反射的に視線を麻紀と同じ方に向けると、そこには確かに茜がいた。
その先にいるのは、昨日視線を交じり合わせた男。
やっぱり・・・
そんな気持ちが悠太の中に憂鬱さと共に広がった。
分かっていたことではあっても、こうして目の当たりにするとやはり衝撃は大きい。
そんな心情を察されないように、さも気にしていないような素振りで悠太は茜たちに背を向けて歩き出した。
ようやくリストにあるものを買い揃えたとき、時刻はすでに3時になっていた。
昼食をとったりしていたのでその分余計に時間はかかったのだが。
買い物を終えたとき、これ程の量の細々とした備品をよく並び立てたものだと悠太は半ば宏基に感心していた。
噂を勘違いしている宏基が、自分に直接言ってこなかった悠太に筋違いの嫌がらせをしているとも取れるようなリストの量だった。
それでも結局リストの中身は本当に細々としたものばかりで、荷物がかさばらないのはありがたいが、これを今日買う必要があったかどうかは疑問だった。
悠太と麻紀の関係を誤解している宏基が好意でセッティングしてくれた買い出しであって、やはり急を要するものではなかったのだろうということが窺える。
「なぁ、佐藤。・・話があるんだけど」
落ち着き払った顔で悠太は口を開いた。
買い出しを終えた今こそ、悠太が求めていた瞬間だったのだ。
真っ直ぐに麻紀を見つめるその瞳の中には確固たる決意が見えるようで、麻紀は一瞬固まってしまった。
何となく、悠太がこれからしようとしている話の内容が伝わってくるようだった。
それを回避したくて、麻紀は無理に笑顔を作った。
「なぁに?私、行きたいところあるんだよね。そこに行ってからでもいい?」
「大事な話なんだ・・」
「私だって大事な用があるの。ね、行こう?」
そう言って麻紀は悠太の手を引っ張り出した。
麻紀の提案にあまり乗り気ではない悠太。
しかし今日を逃したら、いつまた麻紀と落ち着いて話すチャンスが巡ってくるか分からない。
だからこそ麻紀の手を振り切るわけにもいかず、悠太は大人しく麻紀について行くことにした。
そうして1時間ほどがたった。
相変わらず麻紀は賑やかで、でもその雰囲気にはいつもとは違う気配があった。
悠太が何かを話そうとすればそれは麻紀の言葉に遮られる。
そんなことを何回か続けた後、悠太は意を決して麻紀の腕を掴んだ。
「なぁ、本当に大事な話があるんだ」
逃がすまいと悠太に掴まれた麻紀の腕は最初こそそれなりの力が入っていたが、次第に力が抜けていった。
どうしたって避けられないとは分かっていた。
それでも、少しでも長く幸せな気分に浸っていたかったのだ。
「・・・何?」
諦めの色を浮かべて、視線を悠太に合わせる麻紀。
真っ直ぐに見据えた瞳は、やっと得られた絶好のタイミングを必死で繋ぎとめようとしているように見えた。
「前にも言ったことだけど、俺の気持ちは変わらないから。この先、何があったとしても」
「・・他の人とデートしてるのを見たのに?」
「それでも、俺にとってはたった一人の存在なんだ」
「もし、彼女が悠太くんじゃない人を選んだら?」
「それでも、俺の気持ちは変わらないと思う。それくらい重いんだ、俺にとっては」
「そう・・」と俯いたまま麻紀は黙ってしまった。
分かっていたことだ。
最初から分かっていた。
どれだけ悠太を想ったところで、所詮悠太にとっての自分の存在価値など高が知れている、と。
どうしたって適わないのだろう。
「佐藤には悪いと思う。でも、はっきり言って迷惑なんだ」
何度となく悠太から告げられた言葉。
その度に多少は傷ついていたが、こうして面と向かって改めて言われてしまうとその深みはいつもより数倍に膨れ上がる。
それが誰のために発されたものか分かってしまうから、余計に。
「そんなに好きなんだ」
「・・ああ」
「そんなに彼女が大事?」
「大事。他の何よりも」
躊躇うことなく即答で答える悠太に麻紀は思わず微笑んでいた。
「適わないなぁ・・悠太くんには」
適わなかったのは彼女にではなく、悠太の気持ちの強さに。
これ程までに強い想いの前では自分の気持ちなど霞んでしまいそうだった。
他の男と出歩いているのを目撃した直後だというのに、そんなこと全く気にしていないような悠太の様子に麻紀はずっと戸惑っていた。
もし自分が悠太の立場だったら、2人を見た瞬間に凍り付いてしまっただろう。
それはそのまま悠太の気持ちの強さの表れのように麻紀には思えた。
「好き」という想いの強さ、そのもの。
麻紀は自分が持っている分の備品の荷物を悠太に差し出した。
悠太がそれを渡されるがままに受け取ると、麻紀は俯きながら呟いた。
「分かった。これで最後にする。・・・だから、私のお願いも一つだけ聞いて?」
顔を上げた麻紀の瞳には薄っすらと涙が溜まっていた。
儚げに見える麻紀の姿。
それでも、その中にはどこか凛とした雰囲気が感じられる。
涙に濡れながらも、強い光を宿している瞳。
それは今の麻紀にとって、精一杯の強がりなのかもしれない。
「一度だけでいいから、麻紀って呼んで」
大好きな人の声で呼ばれる自分の名前。
それは麻紀がずっと聞いてみたかった響きだった。
他の誰でもない悠太の声色で。
「・・・麻紀」
そう悠太が静かに呟いた瞬間、電撃が麻紀の体を走り抜けたかのように痺れを感じた。
思わず涙が溢れそうになる。
「ありがとう・・」
心なしか震える声でそう言うと麻紀は向きを変えて歩き出そうとした。
その背中に向かって悠太はそっと声をかけた。
「俺、中途半端に優しくしてごめん。でも一言だけ言わせて欲しい。・・佐藤の気持ちは嬉しかった」
背中から聞こえる声にはどこか温もりが感じられ、少しでも気を緩めたら振り返ってしまいそうだった。
どこまでもズルイ男だ。
そんなことを言われてしまったら、未練が残ってしまう。
叶わない想いなら、いっそのこと奇麗さっぱり忘れてしまいたいのに。
この男はいつでも簡単に心を奪ってしまう。
きっとこの先も忘れることなんてできないのだろう。
だけど・・・それでも、その残酷さを理解したうえで、欲してしまったのだ。
後悔は、ない。
麻紀は立ち止まりかけた足を無理矢理前に進めた。
もう、振り返らない。
この恋を素敵な思い出として胸の奥にしまうために。
叶わなかった恋ではあったが、麻紀にとってはとても大切な恋だから。
誰もが持っている素敵な恋物語。
それは人それぞれの形をしていて、そのどれもが様々な結末を持っている。
今はまだ痛みが伴っているけれど、それさえもきっといつか淡い思い出となるのだろう。
たとえ時間がかかったとしても。
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