現(うつつ)における安息







「茜!こっちこっち」


よく晴れた日曜日。まだ午前中ではあるが、街を行き交う人々は多い。気持ちのいい快晴で、思わず出掛けたくなる人が多いのかもしれない。
友達同士や恋人同士、4〜5人のグループや休日出勤と思われるサラリーマン、様々な人が駅前を賑やかにしていた。
そんな中、茜は約束の時間ギリギリに駅前に姿を現した。
茜の姿を見つけた広瀬が自分の居場所を知らせようと声を上げたのだった。


「やっぱり遅刻ギリギリに来たなー」
「いいじゃん、間に合ったんだから。あたしにとっては遅刻しなかっただけスゴイことなの!」
「・・デートの待ち合わせ相手の前で言うセリフではないだろ」


半ば呆れながらそう口にした広瀬。


で、デート!?・・誰と?・・誰が!?


茜は広瀬の言葉に目を白黒させた。茜の中に、今日の遊びがデートだと言う認識はまるでなかったのだ。


「さ、行くよ!時間がもったいない」


まだ戸惑っている茜の手を掴んで広瀬は歩き出した。


「ちょ、ちょっと!今日どこ行くの?」
「ん〜・・・まぁ、まずは運動でしょ!」
「・・運動?」






そう言って連れてこられた場所は、バッティングセンターだった。
駅前から歩いて15分ほどの場所にあるこのバッティングセンターはその立地条件と今日が日曜日という条件が重なったためか、客の入りがよかった。
それでも大して並ぶ必要がないというのは、バッティングセンターというものそれ自体の需要を表しているかのようだった。

その場所で、茜は少々浮かない顔をしていた。


「運動ならボーリングとかの方がよかったなぁ・・」
「何で?」


本音を包み隠すことなくはっきりと口にした茜に対して、広瀬は特に気にする風でもなく聞き返した。


「だって・・・」
「だって、何だよ?」


茜は難しそうな顔をしながら言いよどんだ。
その様子から、一つのシナリオを思い浮かべた広瀬は、口の端をニッと吊り上げながら尋ねた。


「おまえ、もしかして・・バッティング苦手?」


その一言に分かりやすいほどに茜は反応した。
口をパクパクさせながら、真っ赤になってしまったのだ。
さすがの広瀬もそんな茜の様子に抑えていた笑いが爆発してしまった。


「あっははははは!」
「な、なによ!!そんなに笑うことないじゃないっ!しょうがないでしょ、苦手なものは苦手なんだから」


頬を膨らませて抗議する茜。
女子高生としては少々幼すぎるその反応に、広瀬はさらに笑いが込み上げてきた。
そうしてひとしきり笑い終えた後、目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら、広瀬はやっと口を開いた。


「悪い悪い。何か面白い要素が積み重なって・・・」
「うるさいわねー!」
「ごめんって。お詫びにちゃんと教えるからさ」


そういって広瀬は茜の手を無理矢理引っ張ってバッターボックスへと連れ出した。
コインを入れ、バットを茜に持たせる。
茜がバッターボックスに入ったのを見届けると自分は網の外側に立って茜に指示を出した。


「まずはベースから一歩後ろに下がる。そう、そこで脇を占めてバット構えて」


茜は和之に言われるままに構えた。
その瞬間、一投目の球が目の前をものすごいスピードで過ぎた。
実際はそんなに早い速度でもないのだが、バッティングというもの自体に慣れていない茜にとって、それはありえないほどのスピードだったのだ。
間違って自分に当たったら相当痛いんだろうな・・などと、恐怖心すら刺激されてしまう。
そんな茜の心情を察したかのように、広瀬は次々と指示を出していく。
広瀬の指示がなければ、茜は最後の球まで黙って見送ってしまったかもしれない。


「球をよく見て。そんなに早い球じゃないからよく見れば打てる!」


力強くそういう広瀬ではあったが、茜にしてみれば、「そんな簡単に当たるの?」という思いだった。
ピッチャーに見立てた映像に合わせてピッチングマシンから投げ込まれる球。
破れかぶれになりながらも茜は「ええいっ!」と勢いよくバットを振ったが、案の定バットは空を切るばかりであった。


「最後まで球をよく見ろ。打つ瞬間に目を瞑るから当たらないんだよ」
「そんなこと言ったって、早くて見えないんだもん」
「怖がるから駄目なんだよ。よく見ろって」



そんな会話を交わしている間にも球は一球ずつ一定間隔をあけて投げられた。
7、8球と見送っていると、さすがにだんだんとその速さに目が慣れてくる。
さらに実際にピッチャーから投げられる球とは違って、デッドボールが飛んでくる心配はない。そのため茜の球に対する恐怖心も数をこなすうちに消えていった。


「うーん・・フォームは様になってきたんだけどなぁ・・・・」
「ホントに、何でこんなに当たらないの?」


全球打ち終わっても、結局一球もバットに当てることすらできなかった。
それなりにフォームも意識してバットを振っているにも関わらず、球はバットにかすることもなく過ぎていった。
どこがいけないんだろ?と考えてみたところで、バッティングの知識などまるでない茜には分かるはずがなかった。


「ま、単純に言えばバットを振るタイミングが遅いんだな」
「遅いの?でもちゃんと球を見て打ってるのに?」
「そ。見てから打ってる。だからずれるんだよ。気持ち早めにバット振ってみろよ」


言いながら広瀬は新たにコインを投入していた。
異議を唱える隙もなく茜のバッティング練習は続行されたのだった。
そしてまた、ピッチングマシンから球が投げられる。
そのスピードには慣れた茜だったが、イマイチ感覚が掴めないでいた。
だからこそ、フォームは普通だが、どこかぎこちない振り方になっているのだ。
しかし、それは初心者なら当たり前のことで、口で言って簡単に直るようなものでもない。
だからこそ広瀬も敢えてそのことには触れなかった。
つまり、数をこなすことでしか掴めない感覚なのである。


「気持ち早めに、ね・・」


小さく呟き茜は真っ直ぐピッチングマシンが描くピッチャーを見つめた。
ピッチャーのフォームに合わせて球が投げられる。
スピードに慣れきった目は、幾度となく投げ込まれたコースを覚え始めていた。
「早めに!」と心の中で唱えながら左足に力を入れ、思い切り振り切った。


カーン―――――


バットに確かな手ごたえを感じると同時に気持ちいい音が響いた。
跳ね返された球は弧を描くように宙へと放たれる。


「当たった!?当たったよね!やったー!!」


茜は自分でも信じられないというような気持ちで、確認するように声をあげた。
初めてのバッティングの感触は軽い痛みと爽快な心地よさで満たされた。
満面の笑みを浮かべていると、広瀬がニヤッと笑った。


「へぇー上手いじゃん。まさかこんなに早く当てるとはね」
「ホント、自分でも驚きだよ!」


今の一球でコツを得たかのように、茜は面白いくらいに球をバットに当てるようになった。
最初は数メートル前に落ちるだけだった球も、次第にその距離を伸ばしていく。
バッティングに夢中になり始めた茜を確認すると、広瀬は自身も茜の隣のバッターボックスへと入って行った。






「はぁ〜〜〜!!楽しかったぁ!」


満面の笑みを浮かべて茜はメニューを開いた。
午後に差し掛かる時間までバッティングを楽しんでいた二人は、少し遅めの昼食をとるためにカフェテリアへと訪れた。

あれほど苦手意識を持っていたバッティングの魅力に触れ、意気揚々とした茜はランチメニューに視線落とした。
そしてその向かいに座った広瀬もまた満足そうな表情で茜を見ていた。


「だろ?俺好きなんだよねー。バッティング」
「うんうん。これは広瀬が夢中になるのも分かるよ!こんなに楽しいものならもっと前にこの魅力を知りたかったよ」
「そういえば、何で茜はバッティングに苦手意識持ってたの?前にやって全然できなかったとか?」
「おっしゃる通り。もう全然当たらなくて。こんなの何が楽しいんだーってさ」
「なるほどね。でもま、今日で克服できてよかったじゃん」


「ホントホント」と言いながら茜は大きく伸びをした。
様子を見てオーダーを取りに来た店員に注文を伝える。
注文を繰り返した後、店員は店の奥へと消えて行った。


そして訪れた沈黙。
友人、ましてや昨日知り合いになったばかりの相手との沈黙にも関わらず、茜は心地よい気分に包まれていた。
むしろ、ずっと前から一緒にいたかのような穏やかさまで感じられる。
それは先ほどから注がれている午後の暖かな日差しだけが原因ではないようだった。
おそらく、それは広瀬の人柄によるもの。
昨日会ったばかりの相手にも関わらず、茜はそう直感していた。
初対面特有の緊張感すら感じさせない広瀬。
それは穏やかな広瀬の表情からもたらされているのかもしれない。


「いい天気・・」


無意識に口にしていた茜の言葉に、広瀬は静かに笑みを一つ浮かべた。
茜にとって、久しぶりの安らかな時間だった。
おそらく今日、家で過ごすことを選んでいたら、これほどまでに心静かな時間は過ごせなかっただろう。
それは結果的に、目の前にいる広瀬によってもたらされたものだ。
そう思うと、広瀬との出会いは茜にとってはやはり貴重なものだったのかもしれない。

視線を移し、広瀬の顔をじっと見つめる。
相手は外の眩しい景色に目を向け、先ほどの茜の言葉を堪能しているように見えた。
少し長めの前髪はシャープな瞳を隠さないようにサイドへと流れ、少し大人っぽい雰囲気を作り出していた。
細く長い指は無造作にテーブルの上に置かれ、時折リズムを刻むかのように動いていた。


「そんなにじっと見つめるほど、俺っていい男?」


不意に茜に視線を合わせ、確信犯的な微笑みを携えながら茜に問いかける。
その仕草があまりに様になっていたので、茜は一瞬言葉を失ってしまった。


「ば、馬鹿じゃないの!?そういうの、ナルシストって言うんだよ!」
「はは!冗談に決まってるだろ。あ、料理出来たみたいだぜ」


そう言った広瀬の言葉通り、厨房から店員が料理を運んできた。
それ以上反撃をするタイミングをすっかり失ってしまった茜は、仕方なく目の前に出された料理を食すことに専念したのだった。






その後ウィンドウショッピングへと繰り出した2人は結局夕方まで歩き回った。
疲労感もいい具合にたまり、特に何かを話すでもなく帰路へとついていた。

やんわり断ろうとする茜を制し、広瀬は今日も茜を家まで送り届けることを買って出た。


「本当に気にしなくてもいいのに。今日はまだ明るいし・・」
「俺が送るって言ってるんだから、黙って送られてればいいんだよ。デートの帰りに送り届けないなんて男が廃る」


茜の言葉を遮り、広瀬はそう捲くし立てた。
「何それ・・」と自然に笑いが込み上げる。


広瀬ってすごい。
あたし、今日一日で何回笑ったことだろう。
1人でいたら、絶対笑えなかった。
こんな穏やかな気分にもなれなかった。
きっと気を紛らわせることに必死になるだけで、息苦しい一日を過ごしていたことだろう。


茜の中で膨れ上がる、感謝にも似た感情。
どん底の気分から抜け出させてくれたのは紛れもなく広瀬だ。
それはただ単純に現実から目を背けたというだけの逃避かもしれないが、それでも茜は救われたような気分だった。
明日から、どんな苦しみが待っていようとも、今この瞬間の安らぎに勝るものはない。


「何だよ、急に黙っちゃって」


黙り込んだ茜を心配しながら、でもそれを表に出すことなく広瀬は言葉を発した。


「ううん。・・今日、楽しかったなって」
「だろ?今日俺に付き合って正解だったろ?」
「・・ま、そういうことにしといてやるかー」


笑いながら返した茜に広瀬は「こいつめ!」と茜の頭を叩くような仕草をした。
それをかわそうとして体ごと逸らした視線。
その先にあるものを見た瞬間、茜は一瞬にして凍りついた。

それは目を背けた現実が茜に忘れさせまいとしているかのような偶然。
忘れてしまいたい現実をこれでもかというほど突きつける情景。
見たくなかった、悠太と麻紀のツーショットだった。
街を行き交う人の中に混ざって見える後ろ姿。
それはまるで休日のデートを楽しんでいる恋人同士のように茜には見えた。

突然歩みを止めた茜を不思議に思った広瀬は、その視線の先を辿った。
そしてその先の光景を見止めると、それと茜を交互に鋭い瞳で見交わした。

悠太と麻紀が視界から消えた後、それでも動こうとしない茜に広瀬はそっと、でもはっきりとした口調で話しかけた。


「・・どうした?」


それほど大きな声でもなかったが、突然耳元で響いた声に茜ははっとしながら我に返った。


「あ、ごめん。ちょっとボーっとしちゃって・・」


「はは・・・」と苦笑いしながら茜は広瀬の方へと向き直った。
そんな端から見ても苦し紛れの言い訳だと分かってしまうような茜の言葉に、広瀬は深く追及しなかった。
茜の様子が明らかに変わったことを実感していながら、そのことには少しも触れようとはしない。
それは広瀬が人の感情を敏感に察することのできる人間だったからかもしれない。


今は触れるべきではないだろうと―――――


「今日は一日はしゃぎまわったからな。疲れただろ?早く帰ろう」


そう言う広瀬の言葉に誘われるように茜は家へと歩みを進めた。
悠太と麻紀が消えた方へ背を向けて。



茜が家に着いたとき、時計は6時を過ぎていた。
太陽が沈み辺りは薄暗闇に包まれている。
広瀬は茜を送り届けると、真っ直ぐ帰って行った。
服を着替えるため自分の部屋に入った茜は、クローゼットを通り越しベッドに腰掛けた。
そしてそのまま後ろに倒れ、ベッドに仰向けになった。

予想外に楽しかった日曜日は、最後に目にしてしまった光景により重苦しい気分に包まれていた。
それでも、涙が出なかったのは茜にとってはありがたかった。
もしあの場で涙を流してしまったら、ごまかすことなんてできなかっただろう。
むしろ、広瀬という第三者の存在のおかげで涙は顔を出さなかったのかもしれない。


「ホント、いろいろな意味を含めて、広瀬には感謝しきれないな・・」


ポツリと呟いた茜の独り言は、思った以上に響いて聞こえた。
6畳の部屋には勉強机とベッド、テーブル、本棚があり壁には制服や鞄が吊り下げられている。
見慣れているはずの自分の部屋なのに、不意に孤独感に駆られ、茜はそれを振り払うかのように勢いよくベッドから起き上がった。


一つずつ乗り越えていかなきゃいけないんだ。
現実を見つめて、ちゃんと受け止めなきゃ・・・。
次に今日みたいなことがあったときは、ちゃんと笑っていられるように。


そう密かに決意を固めて、クローゼットを開けた。