「先生ー…」 遠慮がちに呼びながら、音楽室のドアをそっと開ける。 途端に耳に飛び込んできたのは、重低音が轟くフル・オーケストラのサウンド。 広い音楽室の中心には、椅子に座って頬杖をつき、目を閉じている恋人の姿があった。 『望むのは、オペラとは違う結末』 「ワーグナーを聴きながらなんて、よく眠れるなぁ」 いまだに、重低音をきかせた厚みのあるサウンドが音楽室いっぱいに鳴り響いている。 こんな音の洪水の中で、よく眠れるものだ。 由奈は半分呆れながら、机の上に放り出してあるCDのジャケットを手に取る。 放課後、氷室は音楽室にこもるときがある。 1人でピアノを弾いたり、吹奏楽部で演奏する楽譜をじっくり読んだり。 こうして、オーディオで音楽を聴いたりするときもある。 こんな自由なことは時間があるときにしかできないが、本人曰く「部活の仕事と息抜きを兼ねている」のだそうだ。 由奈は「100%息抜き」だと思っているが。 ジャケットのタイトルは『歌劇「ローエングリン」』。 ワーグナー作曲の有名なオペラだ。 「ローエングリン…。珍しい」 オーケストラでは交響曲(シンフォニー)を好む氷室が、歌劇(オペラ)を聴いているのは珍しいこと。 全く聴かないわけではないらしいが、クラシックCDを選ぶときは、やはり交響曲を選ぶ割合が高い。 交響曲の次に好きなのがピアノ曲。その次が協奏曲(コンチェルト)。 オペラは、氷室の好みの中では下位の方になるはずだ。 氷室の影響を受けてか、由奈もいろいろな音楽を聴くようになった。 それでも、ローエングリンを全曲聴いたことはまだない。しかし、知っている曲はある。 結婚式や披露宴のBGMでよく使われる有名なクラシックが2曲ある。 1曲は、「メンデルスゾーンの結婚行進曲」。 一般には「ワーグナーの結婚行進曲」と言われているもう1曲が、ローエングリンの中の「婚礼の合唱」だ。 「タン タータターーン タン タータターーン…」 由奈は「婚礼の合唱」のメロディを小さく口ずさんでみた。 華やかな「メンデルスゾーンの結婚行進曲」と違い、「婚礼の合唱」はしずしずと一歩ずつ祭壇に近づくイメージが曲から感じとれる。 ブラバント王国の姫であるエルザと、エルザを救うために現れた白鳥の騎士。 この2人の結婚のシーンに、この曲は流れる。 「このオペラの結末は、哀しいものなんだ…。かわいそう」 そう。このオペラは「悲劇」。 結婚して幸せになるはずだった2人は、別れる運命にある。 何故、別れてしまうのか。 それは…、夫となった愛する騎士の言葉をエルザが信じられなくなったせい。 「私も、そうなるのかな…」 ジャケットに付いていたローエングリンの解説を読みながら、由奈はぽつりと寂しそうにつぶやく。 身に覚えのない罪を着せられたエルザを救うとき、騎士はエルザに2つのことを申し出た。 自分の出自と名を尋ねないこと。もう1つは、自分と結婚すること。 エルザは騎士を信じ、約束を交わす。 騎士はエルザの無実を自らの命を掛けて証明し、エルザと騎士はめでたく結婚することになる。 だが 心無い人間の言葉に惑わされ、エルザの信じる心は次第に揺らいでいく。 婚礼を終えた初夜、エルザはついに出自と名を尋ねてしまった──。 「私も、先生を信じられなくなる日が来るのかな…」 尋ねられた騎士は、エルザに出自と名を明かした。 「自分は、モンサルヴァールトの王子・ローエングリンである」と。 しかしそれは、別れの合図。 愛する者から名前を聞かれたそのとき、掟によりローエングリンは国に戻らなければならなかったのだ。 氷室は、自分を「好きだ」「愛している」と言ってくれる。 自分も氷室を「好き」であり、「愛して」もいる。 しかし今の自分たちは、「恋人」という関係の前に、「教師と生徒」という関係だ。 いくら真剣に想い合っていても、教師と生徒である限りは秘しておかなければならない関係なのだ。 卒業までは、まだ日がある。 卒業を迎えるまでに、隠し続けることに自分は疲れてしまうかもしれない。 そうでなくても、普段は「ただの生徒」として自分に接する氷室に対し、小さな疑念が生まれては打ち消す毎日だ。 本当に私のこと、好きなんですか? 本当に私のこと、愛しているんですか? 2人だけのときに、由奈は何度も氷室に尋ねてきた。 そのたびに氷室は、「好きだ」「愛している」と由奈が安心するまで言い続けてくれる。 それでも いつまで我慢できるのか。 いつまで信じていられるのか。 我慢できず、氷室を信じられなくなったそのときは 「そうなったら、先生は私から離れていく。……ローエングリンがエルザに別れを告げて離れていったように」 1つの曲が終わり、曲と曲の間の無音の状態になった。 音楽室いっぱいに溢れていた音は消え、しんと静まり返っている。 「私がローエングリンなら」 ふいに、ゆっくりと後ろから抱きしめられた。 抱きしめる腕は必要以上に力をこめたものではなかったが、しっかりと由奈を包み込んでいる。 周囲のあらゆるものから由奈を守ろうとでもするかのように、しっかりと。 「エルザを連れて共に行くことを選ぶ」 聴こえてきたのは、清らかな乙女の象徴のような、美しくも静かなフルート・ソロ。 歌劇ローエングリン・第2幕のフィナーレ「エルザの大聖堂への行列」が、静寂の中からはじまった。 「…眠っていたんじゃなかったんですか?」 氷室の腕の中は温かく、とても心地よかった。 心地よすぎて、「このままずっとこうしてほしい」と思ってしまうほどだ。 「ただ、目を閉じていただけだ」 「『私が眠っている』というは、由奈の勝手な思い込みだ」と、氷室は軽く笑う。 「それじゃ、どうしてすぐ目を開けてくれなかったんですか?」 わざと不満そうな顔を作って見上げると、こちらを覗き込んでいる氷室の瞳とまともにぶつかった。 「君が、独り言を言い出したからだ」 「どんなことを言うのか、気になって」と言う氷室の口調は明るさを装ってはいるが、眼鏡の奥の向こうの瞳は真摯な光を宿している。 「…そんなに、不安か?」 氷室の真っ直ぐな視線に耐え切れなくなった由奈は、そっと氷室から視線を外した。 そんな様子の由奈に、氷室は優しく尋ねる。 「そんなに私が信じられないか?」 由奈は小さく首を横に振る。 氷室が信じられないのではなく、自分に氷室を信じ続ける自信がないのだ。 「愛している」という言葉は、とてもうれしい。 だがもう、言葉だけでは足りなくなっている。補えなくなっている。 言葉以上に頼りになり、すがれるものがほしい。 自信が揺らぎそうになるときに頼れ、すがれる確かなものが。 「…先生は悪くはありません。先生がいけないんじゃなくて、私がいけないんです」 「弱い私が…」と、小さく小さくつぶやいた。 由奈の表情。瞳の色。様子。漏らした小さなつぶやき。 それら全てから、氷室は由奈の心の中を汲み取る。 自分に自信がないせいで、見えない未来に怯え、不安がっていること。 その怯えと不安は由奈の中に根強く残り、完全に取り除けないでいること。 由奈1人での力では取り除けない為に、ときに崩れ落ちそうになっていること。 正確に汲み取ったにもかかわらず、氷室が実際に口にしたのは全然別のことだった。 「エルザの行列が、大聖堂に到着したようだ」 突然話題を変えられた由奈は、「…え?」と氷室を見上げる。 フルートからはじまった婚礼の行列のメロディは、他の楽器を加えながら幾層にも音色を重ね、今は重厚なファンファーレを響かせていた。 トロンボーンとホルンが鳴り響き、大聖堂の神聖で荘厳な雰囲気をかもし出す。 「この次の曲は、何だと思う?」 「次…ですか?」 「エルザの大聖堂への行列」の次の曲──。 解説を読んだときに収録曲の項目もチラッと見たはずだ。 思い出そうと記憶をたどっているうちに、「エルザの大聖堂への行列」は重々しくもゆったりと終わった。 次の曲は、華麗なるファンファーレからはじまった。 高らかに、そして華々しく響き渡る。 これからはじまる騎士とエルザの婚礼を祝うかのようだ。 「この曲は、『第3幕への前奏曲』だ」 重厚な「エルザの大聖堂への行列」とは違い、「第3幕への前奏曲」は華麗な曲だ。 「『第3幕への前奏曲』は単独ではなく、演奏会ではもう1曲別の曲と、2曲と続けて演奏されることが多い」 それは、どんな曲か。 氷室に尋ねても、「黙って聴いていればわかる」と言うだけ。 華々しかった曲が、だんだんと静かになっていく。 収束されていく音たちの中から、別のメロディが出てきた。 「あ……」 馴染みのあるメロディ。これは、誰でも知っている有名な曲。 タン タータターーン タン タータターーン… 「ワーグナーの結婚行進…」 「ローエングリンでは、『婚礼の合唱』と言う」 静かなメロディに耳を傾けながら、由奈はそっと目を閉じた。 目を閉じた闇に浮かんだのは、天井の高い大聖堂の中。 その大聖堂の中心を、若き騎士と姫が歩いている。 白い服を着た騎士に寄り添い、白いドレスを着たエルザが静々と歩く。 周囲には、2人を祝福するたくさんの人々。 2人が歩くその先には、婚姻を授ける光り輝く祭壇が待ち受けている。 騎士がエルザに微笑む。 エルザも騎士に微笑む。 全ての幸せが、2人を包む──。 「2人に喜びあれ。幸あれよ」 由奈の幻想は、氷室の声によって一瞬で消えた。 思い描く想像の世界から由奈は引き戻される。 「『婚礼の合唱』の、歌詞の一部だ」 閉じていた目を開けると、すぐ目の前に氷室がいた。 氷室は、間近で由奈の視線を捕らえて放さない。 捕らえられたせいで逸らすこともできない由奈は、ただただ氷室を見つめている。 「君が不安になるとき、これからも何度でも『愛している』と言い続けよう」 氷室が語るその声は、決して大きくはない。 けれど、しっかりとしており、由奈に安心感を与えてくれる。 「君が何かに怯えるとき、いつでも──」 短い距離が、さらに縮まっていく。 これ以上は、目を開けていられない。見ていられない。 せっかく開けた目を、由奈は再び閉じる。 目を閉じても感じる、氷室の存在。 すぐ近くにいる。 さらに近くにくる。 由奈の唇に、温もりが触れた。 触れて、一瞬の後に離れる。 それが2度・3度…。 まるで、由奈がここにいることを確かめるかのように、軽く触れては離れるを繰り返す。 初めての体験。初めての感覚。 どうしたらいいかわからず、由奈は氷室にされるががままになっている。 そんな軽い触れ合いを繰り返された後 奪われる そう思った。 息も、想いも、自分の全てを奪われると思った。 それほどの、キス。 先ほどまでのキスは、優しくていたわるようなキスだった。 今されているキスは、激しくて…強くて。 たとえるなら、全てを奪っていく嵐のよう。 奪われたかわりに、与えられたものがあった。 それは、氷室の想い。 「愛している」という強い想いが、キスを通じて伝わってくる。 今、最高に幸せだと由奈は思った。 何があっても、この人を愛していけると思った。 「愛しています…」 唇が離れた瞬間、自然と言葉が出た。 自分は、氷室零一を愛している。 今の由奈は、それしかもう考えられない。 与えられた氷室の想いが、由奈をいっぱいにしている。 不安も怯えも、由奈のどこを探しても見当たらない。 氷室は、潤んだ由奈の瞳を見つめて微笑む。 「私も愛している」 由奈にだけ聞こえるようにささやく。 そして、もう一度唇を重ねた。 幸せな「婚礼の合唱」が、愛し合う2人を優しく祝福する。 <2人に喜びあれ> <幸あれよ> 「…珍しいですよね。先生がオペラを聴いているなんて」 氷室から離れがたくて、由奈は氷室に寄り添っている。 離れがたいのは、氷室も同じのようだ。抱きしめたまま、由奈を離さない。 「実は、この曲を吹奏楽部で演奏しようと思い、それで聴いていた」 由奈の疑問に、氷室は答える。 「ローエングリンを…ですか?」 由奈はそっと顔を上げる。 「『エルザの大聖堂への行列』のフルート・ソロを、君にぜひ吹いてほしいと思った」 エルザを象徴する清純で美しい音色を出せるのは、由奈しかいない。 さらに言うならば、エルザの清純なイメージは由奈そのものだと感じた。 そう、氷室は説明する。 「先生がそう言うなら…」 一方、由奈の口調ははっきりしないもの。 エルザをイメージしてくれるのはうれしいが、このオペラ自体は悲劇なのだ。 そのことが、由奈の心を暗くさせる。 「でも、このオペラは…」 「それと、もう1つ」 由奈がそう言うだろうと見越していた氷室は、続けて話す。 「実際に上演するオペラでは、エルザは無事に大聖堂には到着しない。途中、邪魔が入るんだ」 「その為、音楽は途中で途切れてしまう」という氷室の話に、由奈は驚く。 「でも、今聴いた音楽は最後まできちんと演奏されていましたよ?」 「そこが、オペラでの音楽とオーケストラでの演奏と違う点だ」 由奈を抱きしめる氷室腕に、力が込められる。 「オペラ版の音楽とオーケストラ版の音楽は同じではない。このように、結末は自分たちの手で変えられる」 「待っている未来は、オペラのようにはさせない。自分たちの望む未来にすることができるんだ」と氷室は告げる。 「そうだろう?由奈」 悪いことばかり想像する必要はない。 互いを信じていれば、どんな困難も乗り越えられる。 愛し合っていれば、2人が望む未来を手にすることができる。 必ず、成し遂げてみせる。 「卒業するまでは、これからも君を不安にさせることもあるだろう。だが、どんなときでも、私は君を愛している」 「信じてくれるか?」という氷室の問いかけに、由奈は「はい」としっかりとうなずく。 「何があっても信じます」と、はっきり言葉をつむぐ。 「それでも、時には不安になることもあるだろう。そんなときは、私の元にきなさい」 氷室は少し身をかがめ、由奈の視線と同じ位置に目を合わせる。 「何度でも、君に『愛している』と言おう。そして、何度でも──」 「キスをしよう」と言ったのは、再び触れ合った唇が離れた後。 |
いやぁーーーーーーー!!ヤバイ!!! 先生がこんな甘い言葉を囁いてくれるなんて!! 初めて読んだとき、開いた口が塞がりませんでした(笑) こんな素敵なことを言っていただけたら、どこまでも着いて行っちゃいそうです、私。 (・・・分かってます。これは由奈ちゃんへの言葉ですもんね/涙) そしてこのお話での注目は、まさに在学時恋人設定ならではの由奈ちゃんの心情。 そうですよね、不安になっちゃいますよね。 でも、先生のこの言葉&キスがあればきっと由奈ちゃんも不安になることなんてなくなるでしょう!! このお話は朝見さんの企画『Happy 01 Birthday』にてフリーとなっていたものです。 朝見さん、とっても素敵なお話ありがとうございます!! 2007.11.29
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