遠回りな恋






「お前、全然変わってねーのな。奈津」


含み笑いを携えながら男は言った。
今私は目の前の男と2人、喫茶店に腰を落ち着けている。
少し軟派な雰囲気を感じさせるその男の名は内田貴行という。私は彼のことをユキと呼んでいた。
そしてユキから奈津と呼ばれているのが、澤井奈津子、27歳の平凡なOLだ。

事の始まりは1時間前。運動不足を解消するために通い出した駅前のスポーツクラブ。
家で腹筋などの運動を試みても、どれも長続きしなかったから、会員制のクラブに通うことにした。
面倒くさがりな自分に運動せざる終えない環境を整えることを目的として通い始めてから、2ヶ月弱。その間、知り合いに出くわすという煩わしさもなく、また少し締まったように見える足のラインからその習慣に満足していた。

そんな平穏な日々は今日、一瞬で崩れ去った。
「奈津?」と遠慮がちに囁かれた声。
反射的に振り返った先にいたのが、ユキだった。


「帰ってきてたんだね」


会社勤めで身に付けた『営業スマイル』ならぬ『OLスマイル』を浮かべて切り返した。


「…無視かよ。ま、いいけど。春からこっちにいる。前の家に住んでるんだぜ?」


「へぇ…」と興味ない風に返したきり、沈黙が訪れる。
そんな雰囲気に全く心当たりなどないと言わんばかりにユキは不思議そうに首をかしげた。


「おまえ、何でそんなつんけんしてんの?」


相変わらずのストレートな物言いに不意に懐かしさが込み上げてくる。


「別に、つんけんなんか…」
「普通、旧友に偶然会ったらもっと懐かしそうにすんだろ?例え演技でも、もちょっと上手く笑えよな」


完全に見透かされていることに心の中で毒づいた。


…ただの旧友なら、ね。


ジロリと視線をユキに向ける。
テーブルに頬杖をつき空いた方の手でコーヒーカップを弄ぶその仕草は、昔の面影よりも会えなかった時間の長さを感じさせるように大人びていた。


「ユキはたくさん変わったね…」


自分の言葉が音となって自分の耳に入ってきたことに思わず驚いてしまった。
口に出すつもりなど、毛頭なかったのだ。


「久しぶりだな、その響き。ここを離れてからそう呼ぶ奴はいなかったから」


柔らかく微笑むユキの顔に、思わず胸の高鳴りを感じた。
それを押し込めようと、温くなったコーヒーを口に運んだ。
胸の奥で、微かに鳴り響く警告のサイレン。
青い、青すぎる青春時代の傷跡。
殆んど癒えていたはずの傷口が俄かに広がりだすかのような感覚。


「ねえ…」


そう発した私の声に重なって、携帯の着信音が鳴った。
その音が自分のものでないことは瞬時に分かった。
なぜなら私が設定している音はクラシックばかりで、それとは似ても似つかない賑やかな曲だったからだ。
ユキはポケットから携帯を取り出し、内容を確認した後、腕時計を覗かせた。


「悪い。俺、もう行かなきゃ」
「…彼女?」


瞬間的に口にしていた。
その裏には僅かな期待と、希望が込められていたことにおそらく自分自身ですら気づいていなかっただろう。
ユキは一瞬、驚いたような表情を浮かべた後、苦笑いしながら口を開いた。


「仕事だよ。まだ一件残ってたんだ。会社に戻らなきゃ」
「そう…」
「さっき、何か言いかけてなかった?」
「さあ?忘れたわ」
「そう、か。じゃ、また」


そう言ってユキは伝票を片手に席を立った。
伝票を持って立ち上がる洗練された一連の動作は、私が知っていた頃のユキからは想像できないほどの『男』を感じさせた。
その後ろ姿が店から消えるまで見送った後、座っていたソファに深く体を預けた。


本当に、すっかり変わったね。ユキ。


目を瞑り静かに懐かしい記憶の中へと意識を投じていった。


ユキと知り合ったのは中学のときだった。
2年のクラス替えで同じクラスになって、偶然隣り合わせの席だった私たちは自然と仲良くなった。
席替えをする頃には、すでにお互いウマが合うというか波長が同じだということを感じていて、その後も二人で話し込むことは多々あった。
他愛のない会話だったけど、ユキと話すことが好きで、同じ気持ちをユキも持ってくれていると盲目的に信じていた。
私は子供すぎたのだ。
女友達の「両想いなんじゃない?」なんてからかい半分の言葉を真に受けて、舞い上がっていたのだ。

初めて書いたラブレター。
緊張で震える手を必死に抑えてユキの机の中にそれを忍ばせた。
告白を感じさせる内容と、待ち合わせ場所を書き記したその手紙をユキの机の中に入れると、私は恥ずかしさも手伝って、走って帰った。
その夜は始終ソワソワしてなかなか寝付けなかった。
明日、ユキはどんな顔をするだろう。
そんな想像は幼い恋心を甘く刺激し続けた。
そして次の日、待ち合わせ時間より早く来てしまった私はドキドキしながら屋上でユキを待った。

けれど、ユキは来なかった。
どれだけ待っても。
最後には校内を見回っていた先生に早く帰るようにお説教まで受けて。
そのときになって私は初めて気がついたのだ。
私は、振られたのだと。
好きだったのは私だけで、ユキにとってはただの女友達に過ぎなかったのだということに。

それ以来、私はユキを避けるようになった。
恥ずかしさと、悲しさといろんな感情が押し寄せてきて、避けることでしかその苦しみを紛らわすことができなかった。
ユキの方も私を避けている様子があったことが、2人の関係を決定的にさせた。

その後、中学を卒業すると二人の接点は全くと言っていいほどなくなった。
進学する高校は正反対に位置するため、駅のホームで出くわすということもなかった。
風の噂で、ユキがこの街を離れて都会の大学に進学したことを聞いた頃には、それを冷静に聞き流していた自分に安堵さえしていた。
年月を重ねていくことで、私の中でもあの日々は青い青春の1ページとして風化されていった証だった。


そんな相手に、今更出くわすことになるなんて…。


閉じていた目を開くと通い慣れた店の天井が瞳に写った。
その中に蘇ったユキの笑顔。
どうしてユキは、あんな風に笑えるのだろう。
私に対して、後ろめたい気持ちは微塵もないのだろうか。
それが振った人間と振られた人間の違いなのだろうか。

いくら考えたところで答えが出るはずもなかった。
私は立ち上がると顔馴染みのマスターに「ご馳走様」と微笑んで店を後にした。


翌週、重い足取りになりながらも、半年分の前払い金を無駄にすることもできず、私はジムへと足を運んだ。
しかし危惧していた事態は起きなかった。
辺りを見回してもユキの姿はなく、私はホッと安堵のため息をついた。


「やぁ、澤井さん」
「きゃぁっ!」


不意に背後から声を掛けられ、思わず悲鳴とも取れる声を上げてしまった。
振り返った先にいたのはインストラクターの男性だった。


「あ…片岡さん…」
「ひどいな。まさか悲鳴をあげられるとは…」


苦笑いを浮かべながら彼が近づいてきた。


「ごめんなさい。ちょっと驚いちゃって」
「まぁいいけど。それで、今日のメニューだけど…」


その後、片岡さんが立ててくれたメニューの説明を受けた。社会人になって以来、運動といえるようなものは何もしてこなかった私のメニューは、持久力をつけることが中心だった。ランニングマシーンやバイクマシーンなどを組み合わせたメニューが1時間余り続き、心地いい疲労感に見舞われる中、片岡さんの声掛けで終了した。


「うん、いい感じだね。この調子で続けて行こう」


メニュー表を捲りながら、片岡さんは満足げな表情を浮かべる。
片岡さんは人当たりのいい物腰柔らかな人で、メニューコーチとして申し分ない。私の体力を考慮して無理のない範囲で続けられるメニューを組んでくれるから、安心してこなしていける。


「ありがとうございました。また来週宜しくお願いします」


笑顔を浮かべてそう言い、汗を拭く。シャワーを軽く浴びて、夕食の買い物をして帰ろうかと今後の予定を立てていると、まだ話が続いていることに慌てて意識を向けた。


「それで…よかったらなんだけど、これから食事でもどうかな?僕ももう上がりなんだ」
「え…」


思わぬ誘いにどう断ろうかと思案していたところに、別の会員女性が話しかけてきた。


「片岡さぁん!今日のメニューのご相談に乗っていただきたいんですけど〜」


メニュー表を片手にその女性は片岡さんの左側にピッタリと寄り添う形で意見を求める。


「あ…でも宮下さんのメニューコーチは確か…」
「でも、今のコーチの方、私には合わないっていうか…やっぱり片岡さんのメニューの方がいいと思うんですよね。片岡さんにメニュー立てていただいてた時の方が効果に実感があったというか」


有無を言わせない女性の口調に、困ったように視線を彷徨わせている片岡さんを見て、「じゃあ、私はこれで…。お仕事頑張ってください」と言い切って背を向けた。
正直、助かったと思った。昨日ユキに会ったことで動揺していた気持ちは今でもまだ落ち着いていないのか、とても他人と食事に行くような気分にはなれなかった。
認めたくなないが、やはり私にとってユキはそれだけ大きな存在なのだろう。今まで男性と付き合ったことはあるが、あの時のような甘い気持ち、安心感を得たことはなかった。
青春時代特有のモノともいえるが、やはり特別な存在であることに変わりはないのだろう。

一気に気持ちが落ち込んだのを感じながら、ロッカーを開けると携帯ランプが着信を知らせるべく光っていた。メールを確認すると、高校時代からの親友、真衣からの夕食の誘いだった。話を聞いてもらいたいという気持ちと、気心の知れた友人と他愛無い会話で気を紛らわせたいという気持ちが膨らみ、30分後にいつもの居酒屋で落ち合うこととした。


「お疲れ〜。ジム通いは順調?」
「ちゃぁんと続いてるわよ!」


とりあえずビールを注文し、喉に流し込む。一口目のビールは格別だ。疲れも悩みも一気に吹き飛んでいく。


「聡がさ〜、どうも怪しいのよ…」


真衣が唐突に語りだした。その表情は暗い。


「怪しいって?」
「浮気…してる気がする…」


真衣と彼は二年前のコンパで知り合った。私もそのコンパには同席していた。彼の方からのアプローチで二人は付き合いだし、その後も順調なのだと思っていた。それが、そんなことになっているとは…。
きっかけは偶然見てしまった知らない女からのメール。ロック画面に表示されていた部分しか見ていないため、詳細は分からなかったらしいが、どうやら会う約束をしていたらしい。


「それがね、今日なのよ」
「え!?…彼には聞いてみたの?」
「聞けるわけないでしょ!絶対問い詰めちゃうもの。…だから、お願い!これから付き合ってくれない?お店、近くなのよ」


沈みきっている真衣を放っておくわけにもいかず、私たちはビールもそこそこに、お店を移動することになった。
移動したお店は先程までいた居酒屋とは異なり、落ち着いた雰囲気だった。ドレスコードまではないだろうが、まさかスポーツジムの帰りにふらっと立ち寄る客がいるとは思えない店だ。軽くシャワーは浴びたが、メイクはほとんどしていない。少し気後れしながら足を踏み入れた。
店内に入ると、店員が「いらっしゃいませ」と愛想よく出迎えてくれた。素早く店内を確認して、目当ての二人を見つけると、見つからないように近くのテーブルへ着いた。真衣の彼と連れの女性は傍から見れば、普通の恋人同士のようだ。談笑をしながら食事を楽しんでいる。


「綺麗そうな人ね。真衣、知ってる人?」
「知らない…。聡、すごく楽しそう…」


覚悟はしていただろうが、それでも二人の姿を実際に目にしたことで、真衣は大きなショックを受けているようだった。どう声をかけていいのかわからず、真衣の手をギュッと握った。すると、堪えきれないと言わんばかりの大粒の涙が真衣の目から零れ落ちた。「もう出よう」そう口を開きかけたとき、別の声がかけられた。


「どうした?」


見上げるとスーツを着込んだユキの姿があった。奈津子と真衣を交互に見て「とりあえず出るぞ」と二人を促した。丁度メニューを持ってきたウェイターに「知り合いが気分が優れないようなので連れて出ます」と声をかけると、ウェイターは頷いて「では、内田様の車を前にお付け致します」と下がっていった。
ユキに連れられて店を出ると、程なくして黒いSUVが入り口に着けられた。ユキは後部座席のドアを開けて二人を乗せ、先程のウェイターと入れ違いに運転席に乗り込む。そのまま車は静かに走り出した。

「家どこ?」と尋ねられたので、真衣の家のある地区を答えた。送ってくれるらしい様子に「ありがとう」と伝えるとユキは「気にすんな」と返したきり車内は沈黙に包まれた。真衣は相変わらず俯いたまま、心なしか肩が震えている。いつも気丈な真衣がこれほどまでに落ち込んだ様子を見たことはない。その痛々しさに胸が締め付けられる。

20分ほど車を走らせるとアパートが見えてきた。車を脇に寄せて止めてもらい、車を降りた。真衣を挟む形でアパートの方へ三人で歩き出す。大通りから一つ入った所で真衣のアパートの入り口についた。


「ありがとう、ユキ。私はこのまま、この子と一緒にいるね。…心配だし」
「ああ。何があったか知らないけど、今は傍についててやれ」
「うん、そうする」


ユキとの会話を終えて真衣の部屋へ行こうとすると、駆けてくる足音が聞こえてきた。来た方を振り返ると、慌てた様子の真衣の彼だった。


「真衣!…やっぱりお前だったのか」


彼が近づいてくると、真衣は後ずさりした。奈津子は思わず真衣の前に立ちはだかった。大切な友人を背に守るように。


「奈津子ちゃん。真衣と話をさせてくれ!たぶん誤解してると思うんだ」
「何が誤解なのよ!」


沈黙を破って真衣が悲鳴のような声を上げた。その勢いで真衣が2、3歩前に出る。


「私、知ってるんだから!あの人とずっと連絡取りあってたじゃない!私に隠れてコソコソと」
「だから誤解なんだって!彼女は違うんだ!そんなんじゃないんだよ!」


ヒートアップしていく二人に、奈津子とユキはただ黙って成り行きを見守るしかなかった。


「彼女は…知り合いのウェディングコンサルタントなんだ。前に、俺の友達が結婚したろ?その時のコンサルタントで、個人的に相談に乗ってもらってたんだ…」
「相談て…まさか」
「こんな形でばれるんなら、さっさと言っとけばよかったよ」


そう言うと彼は真衣に近づいて、ポケットから小さな箱を出した。真衣の手を取り、掌に乗せる。


「俺と結婚してくれる?」


さらに涙が溢れ出し、真衣は彼に抱きついて泣き始めた。その様子を見て、もらい泣きしそうになっていた奈津子は頭を小突かれた。小突いたユキは二人に聞こえないように声を抑えて「馬に蹴られる前に行くぞ」と奈津子の手を引っ張った。




角を曲がって二人の視界から外れたところで、繋がれていた手は外された。包まれていた温もりが消え、僅かな寂しさが胸に広がる。

ユキの車が見えると、「ついでだから乗れよ。送ってく」と言われ、素直に甘えた。一緒にいたい気持ちが勝ったのだ。


「それにしても、あんな場面に出くわすことになるとは…」
「それは俺の台詞だよ。最初は何事かと思ったんだぞ」
「あの時は本当にありがとう」


素直に感謝の言葉が紡がれた。昔のことはさて置き、今日偶然出くわしたのがユキでよかったと心から思えた。信号待ちでこちらに視線を向けていたユキに自然と微笑んでいた。私の視線を受け止めると、ユキも微笑み返してくれた。それがとても心地よかった。


「そういえば、ユキは何してたの?」
「仕事だよ、あの店の改装の設計してるんだ。今日はその打ち合わせで、丁度帰るときにお前たちを見かけたの」
「そうだったんだ!?ユキ、設計の仕事してるんだね…」


ユキの知らない一面がまた一つ増えた。途端、心に暗い影を落とす。まるでリトマス試験紙だ。ユキの一挙手一投足に一喜一憂している。そんな自分に改めて驚き、ため息を落とす。 知らないユキが増えるたびに、二人の間には計り知れない程の距離があることを実感させられる。会えなかった時間の分だけ、知らないユキが存在する。そのことに胸がざわつく。そして、大きく落胆する。全てが今更なのに、と。


「やっぱりさ、聞かなきゃ答えなんて分からないよな」


不意にユキが呟いた。気が付くと車は公園の駐車場に入るところだった。がら空きの駐車場に静かに車が止められる。


「ユキ、どうしたの?」


問いかけた奈津子にユキはゆっくりと視線を合わせた。


「あの時さ、何でお前来なかったの?」


あの時…?疑問に答えが出る隙もなくユキは話を続けた。


「中学の時、手紙くれただろ?なのに、何で来なかったんだよ…。久しぶりに会ったと思えば、妙につんけんしてるし。そんなに俺が嫌なわけ?」
「ちょっと待ってよ。中学の時、待ち合わせ場所に来なかったのはユキでしょう?」


中学の時、意を決して出したラブレターもどきの手紙。淡い恋心を抱いていた当時。でもそれは、苦い思い出になった。


「私、ずっと待ってたのに。ユキは来なかった」
「俺はちゃんと体育館裏に行ったぞ。そしたら、クラスの女子がいて、奈津には他に好きな人がいるからもう話しかけないでほしいって伝言を頼まれたって…」
「何それ!?しかも、何で体育館裏なの?私は屋上って書いたのに…」


混乱する頭を必死で落ち着けようとする。しかし迷走する思考回路では正しい判断が下せるはずもない。


「じゃあ、お前じゃないんだな?あの手紙を書いたのは」
「でも、私手紙は書いたのよ。屋上で待ってるって」
「だから、お前が出した後、誰かにすり替えられたんだろ。誰かに手紙出すこと話したんじゃないのか?」
「…そういえば、女友達には話してたかも」


つまり、そういう事?
「両想いなんじゃない?」と私を励ましてくれてた友達は、私とユキを引き離したかったって事?
あっけない結末に拍子抜けしていると、不意に抱き寄せられた。


「何だよ…。こんな遠回りさせやがって」


ユキの腕がきつく回される。仄かに香るユキの心地いい匂いに包まれ、気づけば奈津子も腕を伸ばしていた。


「なぁ、奈津…ずいぶん遠回りしたけど、ここからもう一度始めないか?この前偶然お前を見つけたとき、俺本当に嬉しかったんだ」
「ユキ…。私ね、ユキのこと忘れたことなかったよ。ずっと大好きだったよ」


そう伝えるとユキは嬉しそうに微笑んだ。そしてそのまま甘い口付けを私に与えた。とろけてしまいそうな程甘い口付けを。