ハプニング・チョコ
「寒い・・・」 亜麻色の髪を風になびかせながら緑の瞳を細めて、麗しい青年は白い息を吐き出しながら、小さく呟いた。 2月に入り寒さは一層と厳しくなっているここ数日。 気象情報では毎日のように最低気温の更新を知らせている。 そんな気象情報とは裏腹に青年の表情はどこか柔らかい。 学校に向かう足取りも、北風が吹きつけているにも関らず軽さが表れている。 なぜなら・・・ 今、青年の心を占めているのはあるイベント。 それは女の子がチョコを渡して愛を告白するというものだ。 まぁ最近では義理チョコとしての要素もかなり強くなっているが、それでも今日という日にチョコを貰えるかどうかというのは彼女の心情を探る絶好のチャンスなのだ。 そして自分と彼女との距離の近さから、まるで子どものようにワクワクした気分が収まらない。 休日にはよく2人で出掛けるし、クリスマスや初詣などのイベントも二人で過ごすことが自然なこととなっている、高校3年目のバレンタイン。 「貰えないかもしれない」という不安よりも「貰えるだろう」という期待の方が大きくなる。 だからこそ、学校が近づけば近づくほどその足取りはより軽さを増すのだ。 校門をくぐり、まっすぐに生徒玄関へと向かっていく。 何気なく視線を向けた校舎裏に一瞬、見慣れた後姿が消えるのが見えた気がした。 「もしかして・・」そんな想いが浮かび、青年は歩みを変えた。 朝から彼女に会えるなんて今日はラッキーかもしれないなんて思いながら、彼女が消えた方へと歩いていく。 「氷室先生!・・あの」 あと数歩で校舎裏の風景が視界に入るというところで聞こえてきた声。 それは間違いなく青年が思い描いていた人物のものだった。 しかしその声が紡ぎ出した響きから、おそらくそこにいるのは彼女1人ではないのだろうと察した青年はそっと校舎の影から様子を窺った。 「雨宮。どうした?」 「あの、バレンタインのチョコです。先生にはいつもお世話になっていますから・・」 そう言って彼女が紙袋の中から取り出したのは、白い包み紙の小さな箱だった。 それを差し出された長身の教師は一瞬、ほんの一瞬嬉しさに顔を綻ばせたかのように見えた。 それは可愛い教え子から示された教師としての彼への好意を素直に喜んでいるかのような。 しかし、彼はすぐにいつもの表情へと戻すと彼女をまっすぐ見つめて口を開いた。 「全く君は・・。教師に贈るチョコレートは職員室のチョコ受付箱だと毎年言っているだろう」 「そうですけど・・氷室先生に直接渡したかったんです。日頃の感謝を込めて」 「・・そうか。では、ありがたく受け取っておこう。しかし、くれぐれもこのことは・・・」 「他の生徒には内密に・・ですよね?」 「・・・そういうことだ」 そう言うと彼は向きを変えて校舎の中へと消えていった。 彼女も生徒玄関の裏側から校舎内に入っていく。 それを見送りながら、彼はただ呆然と立ち尽くしていた。 今の出来事が彼にとってはあまりに一瞬のことに感じられて、足が止まってしまったのだ。 「おぉー!氷室センセもチョコもろとったな〜」 立ち尽くしたままだった彼は、突然自分の近くでした声に、驚きながら後ろを振り返った。 そこにいたのは自分よりもいくらか背の高い関西弁の男だった。 「姫条。いつからそこに・・」 「ん?ジブンが校舎裏に向かうの見えてな。気になってつけてきた」 悪びれる様子もなく爽やかな笑顔を向けて彼はそう言った。 まぁ、俺もあいつの後を追ってきたようなものなんだから、人のこと言えないか・・。 「にしても、ショックやわ〜」 そう言って多少大げさにも見えるほど彼は大きくうな垂れた。 何がショックなんだ? 浮かんだ疑問を口にするより先に、彼はあるものをポケットから取り出した。 それは先ほど彼女が氷室に渡していたものとよく似た小さな箱。 「登校途中にな、すずちゃんから渡されたんや。センセがもろとったのも同じもんやったってことは、コレは完全に義理っちゅーことやんなぁ・・中身も市販のものやったし」 「・・・かもな」 「アホ!ちょっとは慰めんかい!!」 素直な意見を述べたところ、テンポよく切り替えされてしまった。 そうか、慰めるところだったのか・・・。 「・・・悪い」 「こうなったら数や!数で勝負や!」 「・・・?」 「そうや!エエ男っちゅーのはチョコの数で決まるんや!そうと決まったら早速各クラス周りに行かな!!ほなな、葉月」 そう言うと関西弁の彼は足早に生徒玄関へと消えていった。 それを見送りながら、彼もその後に続いて歩き出した。 彼女が他の男に渡していたチョコに複雑な思いが込み上げてはいたのだが、今の姫条の話で幾分か気分は紛れていた。 それこそ、彼女が氷室にチョコを渡しているのを見たときは、頭に大きな衝撃を受けたかのように真っ白になってしまったが、姫条の話でそれがおそらく義理チョコなのだと分かるとその衝撃は徐々に小さくなっていった。 さらには、そんな彼女だからこそ自分は求めて止まないのかもしれないという気持ちが生まれたのだ。 ゲンキンな奴だな。 義理チョコだと知って冷静さを取り戻すなんて。 人に気を配れるような彼女だからこそ、自分も惹かれたのだということを思い出すなんて。 込み上げる自嘲した笑みを浮かべながら、彼も校舎の中へと入っていった。 授業中も休み時間も、今日一日はどこか緊張感が走っていった。 それはきっと校内に溢れている雰囲気が自分自身にも伝染したのだろう。 女子も男子も誰かの様子をこっそり窺っているのが分かる。 それはチョコを渡そうとタイミングを計っている女子だったり、女子が手に持っているチョコの行方を気にしている男子だったり。 きっと他人から見たら自分もそんな風に映っているのだろう、と自覚していながらも視線の先は彼女を見つめていた。 今日の彼女はとても忙しそうだった。 10分間の休み時間もすぐにどこかへと消えてしまう。 その度にあの紙袋を持っていくので、おそらく誰かにチョコを渡しに行っているのだろうと推測するのは簡単だった。 それが午前中の休み時間、毎回続くとさすがに複雑だ。 彼女は一体何人の男にチョコを渡しているのだろう? しかも、自分はまだ貰えていないというのに・・・。 朝抱いていた「貰えるだろう」という期待は、なくなってはいないが、大きく揺らいでいた。 俺はあいつにとって何番目のチョコレートなんだろうか? そんな馬鹿げた疑問が浮かんでは消えていった。 彼女の動向を目で追ってしまう自分に嫌気が差して、俺は昼休みになるとすぐに教室を後にした。 向かったのは体育館裏。 顔馴染の猫たちにエサをやりながら時間を潰していた。 外の寒さは朝に比べずいぶんと和らいで、太陽の穏やかな温もりを感じることができた。 エサを食べ終えた猫が眠りの世界に誘われつつあった俺に纏わりついてくる。 それさえも心地よく、俺は眠りの世界に完全に浸り始めていた。 そこに響いた柔らかな声色。 「葉月くん」 優しい音色にも関わらず、俺は一瞬で目が覚めた。 「すず。・・どうした?」 「うん・・あのね、葉月くんに渡したいものがあって」 その言葉だけで俺の心臓はドクンと一つ、大きく跳ねた。 来た・・・そう確信した。 なぜなら彼女の手には、あの紙袋が握られていたから。 「これ・・」 そう言って彼女が差し出したものを見て、俺は愕然とした。 なぜならそれは今朝氷室に渡していたもの、姫条から見せられたものと全く同じものだったからだ。 白い包み紙の小さな箱。 それを満面の笑みを浮かべて渡してくる彼女。 そこから先のことはよく覚えていない。 気づけば彼女はいなくなっていて、俺の手の中にはあのチョコが握られていた。 おそらく俺は無意識の中で彼女からのチョコを受け取ったのだろう。 そして役目を終えた彼女は、おそらく次の渡し相手の元へと去っていたのだ。 どれくらいの時間がたったのだろうか。 午後の授業はとっくに始まっていることだろう。 衝撃を受けて停止していた思考は、経過した時間と共に徐々に冷静さを取り戻しつつあった。 そうだよな。 よく考えてみれば、俺と彼女は単に仲がいいというだけで別に付き合っているわけじゃない。 だから、彼女が俺に義理チョコを渡したところで、本来なら何の不思議もないはずなんだ。 ただ・・俺が勝手に舞い上がっていただけで・・・・・。 彼女はとても人気者だ。俺と違って交友関係も広い。 俺はただ自分の近くにいる人間というだけで彼女を特別視していたけど、もしかしたら彼女にとってはただの仲のいい友人の1人に過ぎなかったのかもしれない。 そう考えると、胸にかなりの痛みが込み上げたが、納得のいく答えのように思えた。 このチョコが彼女の気持ちなのだ、と。 どれだけ自分を納得させようとしても、気持ちはそう簡単に割り切れるものではない。 それを今、嫌というほど思い知らされている。 たとえ彼女が自分のことをただの友人としか思っていなくても、自分にとって彼女は唯一無二の存在となってしまっているのだ。 この真実を受け入れるには時間が足りなすぎる・・・・。 彼は壁に背を預けてゆっくりと目を閉じた。 その先には真っ暗な闇が広がり、ただただ彼の不安を煽る。 痛感させられる、残酷な真実。 「葉月くん・・?」 暗闇の世界に響いた愛しい響き。 そっと目を開けると、そこに1人の少女が映った。 その顔つきはどこか心配そうだった。 「何だ?」 彼の口から発せられた声は、自分でも驚くほど低く威圧的だった。 そんな彼の声をただ単に寝起きの声だと理解したのか、彼女は臆することなく葉月に近づいた。 「さっきの授業いなかったから、もしかしてお昼寝しちゃってるのかなと思って見に来たの」 そう言って彼女は俺の隣に座り込んだ。 至近距離にいる彼女に俺の鼓動が少し早くなる。 こんなにも愛しく思っているのにどうして彼女はこちらを向いてくれないのだろう、などと独りよがりな考えが浮かんでしまう。 それを無理矢理消そうとして、咄嗟に言葉を発した。 「チョコはもう渡し終わったのか?」 言ってすぐに「しまった」と思ったが、言ってしまった言葉を取り消すことなどできるはずがない。 彼の問いかけに彼女は一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに照れくさそうに笑った。 「やだなぁ。そんなにたくさん渡してないよ」 「そうか・・?」 「バイト代も底を尽きてきちゃったしね。そういえば葉月くん、チョコ食べてくれた?」 どこか嬉しそうにそう聞く彼女に、俺は視線を逸らしながらボソリと一言呟いた。 「いや、まだ・・」 「そっか、残念。感想聞きたかったのに」 感想? 市販のチョコの感想を聞きたいのか? そんな疑問を浮かべていると彼女はまた口を開いた。 「けっこう頑張ったんだよ?そのチョコ」 頑張った・・・? 買うのをか・・?もしかしてすごく並んだ・・とか? いや、でも普通この場合、「自分で作った」って意味にならないか? いくつもの疑問が次々と彼の中に浮かんだ。 しかしそのどれもに、明確な答えを与えることは彼にはできなかった。 おそらく答えを知っているのは彼女だけなのだから。 「なぁ・・このチョコ、手作り・・なのか?」 恐る恐る、といった様子で彼は彼女に問いかけた。 その様子が彼女には違う意味に取れたようだ。 「あ、ヒドイ!ちゃんと尽にも味見してもらってます!」 「いや、そういう意味じゃなくて・・」 「だったらどんな意味なのよ」 むぅっと頬を膨らませながら彼女が問い詰めてくる。 だが、彼にはそれすらも愛しくてしょうがなかった。 先ほどまでとは打って変わって、世界に輝きが満ちたようだった。 再び膨らみ始める期待感。 それと同時にいくつかの疑問がまたしても浮かんだ。 「でもこれ、他の奴らに渡してたのと同じものじゃないのか?」 「あ、それはラッピングが同じなだけ。中身は違うよ。ホラ、今月ピンチだったから、ラッピング代を浮かせようと思って」 そう言いながらペロッと舌を出した。 そんな仕草も今の彼には幸せの象徴だった。 すぐさま箱のラッピングを奇麗に取り外し、中身を確認する。 中にあったのは、大きめのトリュフが4つ。 その形は大量生産された規格的なものとは違って、1つずつが微妙に異なる形だった。 その1つを口に入れると、途端に口の中には甘いチョコが溶け出した。 「美味い。・・頑張ったな、すず」 「やった!褒められた」 と満面の笑みを浮かべる彼女。 そんな彼女を愛しそうに見つめながら彼は呟いた。 「来月、お返し、ちゃんとするから・・」 そう言った俺の言葉に、あいつは少し寂しそうに微笑みながら口を開いた。 「でも、来月は・・」 その続きは分かってる。 でも・・・ 「卒業したって、会えない訳じゃないだろ?」 俺がそう言うと、あいつは大きな瞳を見開いたかと思うとすぐに微笑んだ。 「うん・・うん。そうだよね」 「ああ。必ず渡すから」 「楽しみに、してるね」 君がくれた甘いチョコが怖気づいていた俺に勇気をくれたような気がするから。 必ず『約束』を果たすよ。 そう、ここで、誓う。 |